2月の活動状況

花は水仙。
花ことばは(神秘)、
水鏡に写る自分の姿に恋をした
ギリシヤ神話のナルキッスが
学名ですが(片想い)という意味もあります。


誕生石。
アメシスト(アメジスト)
宝石ことば
誠実・こころの平和
宝石からのメッセージ
何事も用心人生の悪酔いを排除
アメシスト(アメジスト)の種類
1種類しか無いようです




五吾嬬小運営協議会 若葉会新年会 第五吾嬬小閉校式典
初午祭 防災部委員会 第七分団新年の集い
節分祭 広報部委員会 墨田区との意見交換会
葛西運動説明会 防災拠点会議 日朝親善の集い







 今月に入ると、第1日曜日(2日)には、川崎大師へ他の町会の人達と一緒になって、八広講の初詣を兼ねた催しがある。各所で乗り込んだバス6台が更正小学校脇の曳舟川通りに集結し首都高速中央環状線の四つ木インターから南下して湾岸線の西行きでお台場を通り、海底トンネルをくぐり、昭和島ICで1号羽田線に合流して羽田整備場辺りで横羽線に入り多摩川を渡り、大師ICででて、右折し、大師本町で左折すると目指す川崎大師
 お詣りと護摩が済むと食事と物見遊山で時間になると再びバスに乗り込み、今年は横浜のラーメン博物館に立ち寄り帰宅。
 そして、9、10日は、人気薄のアクアラインを利用して早春の南房総、白浜南国ホテルへバス1台で1泊2日の法人会の研修旅行が行われた。2日間とも温かくて、さすが南房総の春は早い。温かくなり始めると、あちこちでクシャミをしたり鼻水が自然に出るとぼやく
花粉症の季節が足早にやって来る。
 15日、16日の第3土曜日、日曜日は出羽邦夫後援会の旅行会が浜名湖へ97名の支持者が参加するバス旅行があり、全部参加する人は3週連続でバスに揺られるというハードスケジュールだ。
 そして今月最後の土曜日(22日)は、75年前、この地に開校した第5吾嬬小学校が、更正小学校、木下川小学校の3校が一つになり、八広小学校になる為に廃校という事で、関係者による式典とお別れ会が厳粛のうちに粛々と行われた。顧ると終戦後の昭和21年4月1日に入学した、私も、早、還暦を過ぎてしまったが、当時は木造の平屋建の校舎が、今の鉄筋コンクリートの4階建が建っている場所にみすぼらしく建っていたが、教室が足りず、低学年は青空教室で2部授業で始まったという状況の本校が、西側の今、温室もある校園に平屋建の校舎が建ち、そして卒業した新学期にプールのある東側に木造モルタル塗りの2階建て校舎と教室は増えて青空教室や2部授業はなくなり、プールや体育館と設備や器具も整い立派な地域のシンボル的な施設になったこの時期に、この様な形で廃校になるとは、この当時を知る私自身も他の誰も想像し得なかっただろう。母校がなくなるのは、寂しい、口惜しい。
 それにしても、今月は4週にわたって出ずっぱりの方も大勢いらっしゃったことでしょう。


節分

 
雑節の一つで、立春の前日をいう。現行暦では2月3日または4日ころである。立春から新しい年が始まると考えれば、節分は年の最後と考えられる。元来節気や雑節は、太陽の黄経を基準にしたものであって、これは
旧暦における太陽暦的要素である。もとは立春、立夏、立秋、立冬など、いずれも季節が始まる時であったから、四季ともに節分であったが、春ばかりに、この名が伝わった。古くは1日が夜に始まり、次の昼におよんだので、節分の夜は実は立春の夜のことであったが、1日の数え方が変わって朝から夜に続くようになると、節分は立春の前夜と考えられ、さらに立春の前日をさすようにもなった。この春立つ日は旧暦で新年の「七日正月」前後に回ってきたが、閏年には正月以前にあたることもあった。「年のうちに春はきにけり」と「古今集」に読まれたのはこの場合である。立春の節分が特に重んぜられたのは、これが年頭の重い行事の日に数えられたからである。現在も各地に様々な節分習俗が伝承されているが、いずれも新年を迎えるのにふさわしい行事で、邪気を祓い幸いを願う作法が目立っている。
 節分の夜の行事で一般に行われるのは鬼打ち、豆まきであった。日暮れ前に「
大豆」をいり、夜になってから、「鬼は外、福は内」などと唱えながら豆を内外に投げ、鬼を追って戸口を閉ざす。江戸時代以来都会の社寺でもこの除災神事を行うが、これは平安時代の宮廷では12月晦日(つごもり)に行った追儺(ついな=鬼やらい)の伝統を復興したものと説明されている。しかし、春の初めに神が訪れて祝福を与えてくれる言う進行は古くからあり、そのため家に神を迎えて祭るために、祓いをする必要があった。両者が習合して悪鬼を祓う行事に成長したのである。この夜、門口に立って厄払の祝言を述べた物ごい(ほかい人)は実は訪れる神の信仰の変化であった。戸口に焼きイワシの頭とヒイラギの小枝とをさす習俗も悪鬼の侵入を防ぐためといわれ、ニンニクなど臭気の強いものを用いるところもあり、「やいかがし」といって田畑に立てるかかしと同様に考えるところもあるが、もとはこれも春を迎えて物忌みする家の印であった。「虫の口焼き」と称してブユやへび、その他の農耕や日常生活に害のある虫鳥獣の名を呼びながら音を立てて燃えるトベラなどに木の葉を炊き、屋内の臭気と煙とで満たす作法もあった。「成木責め」、「木まじない」もこの日にする地方がある。モグラの害を防ぐために畑にナマコをひきまわる「なまこひき」、「もぐらうち」も節分に行われた行事である。そのほか豆まきに伴って、いろりの灰に12の豆を置き、その焼け方によって月々の天候を占う「豆うら」、「年だめし」や初夢の夢占いもあった。これらはしかしながら必ずしも節分に限った習俗ではなかった。同じ行事が七日正月、小正月に行われる地方もあった。立春が他の正月の節日と重なった為に行事の日が分かれたのである。
 なお、立春を正月として重んずるのは中国の伝統で、古代から農事のはじめとして、役人が立春の前日に東郊に出て春を迎え、土牛と芒神(ぼうしん)の像を担いで勧農の印しとした。土牛は土で作った牛で後世は春牛と呼ぶようになった。芒神は古くは句芒神(こうぼうしん)といい、正月の神の名であるが、もとは樹木を司る神だともいう。さらに立春の当日にこの芒神と土牛とを天子にささげ、おわって土牛をむちうち、これを打春といった。また、この日には春餅を食べたり、特に女子はダイコンを食べるならわしがあり、これを咬春(こうしゅん)といって春のねむけをさますことができるといわれた。
 節分その他の機会にいり豆をまく。「
福は内、鬼は外」などと唱えながら、枡にいれた豆を年男がまく。米をまく散米又は「うちまき」の神事儀礼の変形であり、下級の精霊に対する供応の一つの形である。節分に限らず、大晦日に豆まきをするところがあるのは、どの日を1年の境と見るかの相違に過ぎない。年の境には、祭りをうけるために年神が来臨するが、年神以外にもこれに付随して寄り集まってくる精霊があり、それらの精霊に対する供物を、豆まきの形で与えるのである。もちろん年神の性格にも時代的な変遷があり、主客混同もおこなわれている。たとえば節分には邪悪な鬼がやってくるという考えが芽生えると、豆をまいてその鬼を追いはらうのだとする解説が生じてくる。