旧暦


 日本の旧暦では、一か月は月の満ち欠けで計っており、一方、季節の節目を把握するために太陽の運行に合わせた24節気を設けていた。そして、新年を迎える節目には、月の巡り合わせた正月と、太陽の巡り合わせた立春の2つがあった。正月は新暦の2月初め、立春の直前頃にあたり、『
年の内に春はきにけりひととせをこぞとやいはんことしやいはん』と、(立春はふつう新年になってからなのに、今年は旧年の内にやってきました。今は去年というべきか今年というべきか今年というべきか迷ってしまいますね)。という意味である。
ふるとしに春たちける日よめる≫と題した【古今集】の冒頭の歌のように、年によっては立春が先に来ることも稀にあったのである。
 正月と立春の行事の特徴は、次の3つ挙げられる。
◎旧年に蓄積した塵芥や災厄などの祓え清め。
◎新しい年を良い年にと願う祈念と祝福

◎あらゆるものが新しい生命力を得る年取りである。  
 
節分の豆まきを祓え清めの行事であり、年の数より一つ多く豆を食べるのは年取りの意味である。豆には霊力があると考える穀霊信仰が背景にあり、生活に危険を及ぼす災厄や邪気などを鬼に見立てて、豆の力で追い払うのである。
 では、いつの時代から、節分の鬼と豆まきの習俗が見られるようになったのか。早い記録として知られるのは、室町後期の【今川大双紙】である。武家の礼法を説く故実書で、「節分の夜の鬼の大豆をも御年男勤(きん)ずる也」と、豆まきの役は年男が勤めるものだと記している。
 また、戦国期の連歌師宗長は「宗長手記」で、「福は内へいり豆の今夜もてなしに拾ひ拾ひや鬼は出らん」と詠んでいる。「福は内」という唱え言葉と共に投げつけられる煎り豆も、これももてなしかと拾って食べながら、鬼は家から出て行くらしい・・・・・・。どこかユーモラスな歌である。
 その後、江戸時代に豆まきが盛んに行われるようになり、起源は平安時代の宇多天皇の頃だという俗説も広まるようになっていた。
 しかし、古代から、邪気や疫鬼を追い払う行事は、節分よりもむしろ大晦日の追儺、鬼やらいの行事であった。追儺は古代中国に起源を持ち、日本でも平安時代に盛んに行われた宮廷行事である。大晦日の夜、方相氏と呼ばれる異様な扮装をした人物が戈(ほこ)と楯を打ち、親王以下群臣が桃の杖をもって、悪鬼、疫鬼を追い払うものであった。
 中世には、方相氏が鬼と見なされるなど変化が見られ、やがて廃れていったが、その名残は各地の寺社行事として伝わり、また、一部は節分行事として伝えられたのである。
 「
鬼すらもキの内とみのかさをぬぎてやこよひ人にみゆらん」。平安時代の【躬恒集下】に収める凡河内躬恒(おうしこうちのみつね)のうたであるが、古来、鬼を歌う歌にはユーモラスなものが多い。西欧社会の悪魔とは異なり、日本の鬼は、どこか親しみ深い存在である点が特徴のようである。