豆まき


豆まきに由来
 
 宇多天皇の御代(888〜896年)に鞍馬山の鬼が都に出て来たので困っていました。その時に毘沙門様のお告げがあって七人の博士が49日の間を祈祷して鬼の出てくる穴を封じて、3石3斗の豆を投げつけて追い払ったという伝説から豆まきが始まったといわれています。
 今日では一般には、節分の夜に、「福は内、鬼は外」と大きな声で言いながら豆を投げつけて鬼を追い払うと1年間無病息災で過ごせると言われています。
◎不苦者有智 ふくわうち=くるしまざるものにはちえあり
◎遠仁者疎道
 (をにはそとじんにとおきものはみちにうとし
 
大豆イソフラボンは更年期障害には女性ホルモンが関係しています。体内で作られるホルモンはある年齢を過ぎると徐々に減少していきますが、更年期障害は女性ホルモンの分泌が少なくなることによって起こる症状です。大豆イソフラボンには女性ホルモン様作用があり、症状を和らげるとの効果が報告されています。
また、
乳がんは、エストロゲンが過剰に分泌されることにより、発症しやすく、イソフラボンはエストロゲンが体に過剰にあるときには、その働きを弱めることで乳がんを予防すると考えられています。
骨粗しょう症は、加齢や運動、食事内容などいろいろな要因が重なって、骨からカルシウムやタンパク質が溶け出すことで起こります。女性ホルモンの欠乏が関係しているため、女性に多い疾患であり、さらに最近では偏った食生活や無理なダイエットによって、若い女性に『骨粗しょう症予備軍』が増加しているといわれています。女性は閉経を迎えると卵巣ホルモンであるエストロゲンの分泌が低下することで骨量の減少が起こり、骨がもろくなります。イソフラボンはエストロゲンのような働きをし、カルシウムやタンパク質の溶出を軽減する効果が期待されています。
 更年期障害には女性ホルモンが関係しています。体内で作られるホルモンはある年齢を過ぎると徐々に減少していきますが、更年期障害は女性ホルモンの分泌が少なくなることによって起こる症状です。
大豆イソフラボンには女性ホルモン様作用があり、症状を和らげるとの効果が報告されています。
また、
乳がんは、エストロゲンが過剰に分泌されることにより、発症しやすく、イソフラボンはエストロゲンが体に過剰にあるときには、その働きを弱めることで乳がんを予防すると考えられています。
 大豆タンパク質は高コレステロール血症者の
血清LDL(悪玉)及び総コレステロール濃度を低下させる働きを持っています。また、正常濃度者に対しては、総コレステロールの濃度を下げずにLDL(悪玉)/HDL(善玉)コレステロールの存在比を改善します。さらに正常濃度者がコレステロールをとりすぎた時の血清コレステロール濃度の上昇を抑制します。
 豆まきでは年男(その年のえとの生まれの人:今年12、24、36、48、60、72、84、96、108、120歳になる男性)あるいは一家の主人が「福は内、鬼は外」といいながら煎った大豆をまき、みんな自分の年の数だけ豆を食べるとこれから1年病気にならないと言われています。また妊婦のいる家庭ではこの豆を安産のお守りにもします。もともと宮中の行事が一般家庭に普及したものとされますが、最近は大きな神社などで芸能人やスポーツ選手などを招いて豆まき大会をやっているケースも多いようです。
 古来疫病や災厄というのも金気に属するものと考えられていました。ですから豆というのは実は鬼をやっつける道具でありながら実は鬼そのものでもあるわけで、豆まきというのは邪気を祓うとともに、「金」の気を剋することで「金剋木」で金気に剋されるはずの「木」の気、つまり春の気を助ける行事、つまり春を呼ぶ行事でもあるのです。
 一般的な豆まきの口上は「鬼は外、福は内」で、少なくとも室町時代にはこの口上ができていたらしいのですが、そう言わないところも数多くあります。これは豆まきの風習が全国に普及していくなかで出来ていったバリエーションではなかろうかと思われます。
 例えば起源がはっきりしているものとして、福島県の二本松地方では「鬼は外」とは言わないか、あるいは「鬼外」と「ワ」の音を抜かします。これは二本松藩の殿様は丹羽氏なので、「鬼は外」と言うと「お丹羽様外」になってしまうからだといいます。

恐れ入谷の鬼子母神  
東京都台東区の鬼子母神(仏立山真源寺)では「福は内、悪魔外」で「鬼は外」とは言わない。
新宿歌舞伎町の鬼王神社(きおうじんじゃ)
 やはり鬼が御祭神なので。「鬼は内、福は内」。

鬼の起源 

 現在「鬼」という字は普通「おに」と読まれていますが、有名な「九鬼文書」(くかみもんじょ)のように「かみ」と読むこともあります。また古代には「もの」と読んだ例もあるようです。「もののけ」の「もの」ですね。
 この文字は中国ではgui(キ)と読み、人間の霊魂あるいは亡霊を意味する文字ですが、日本では初期の段階では霊的な存在一般を表すのに使用されたようです
 「おに」の語源については、源順「倭名類聚鈔」(937頃)の「隠(おぬ)が訛ったもの」という説を取っています。
 すなわち、「おに」というのはそもそも「見えないもの」であったのが、やがて仏教の夜叉・羅刹などを描いた絵画の影響で、現在のような鬼の姿が描かれるようになったとしています。
 「おぬ」から「おに」に変化するというのは、ありそうでもありますが、やや苦しい感じもします。(そもそも「おぬ」という読みで霊的存在を表現した例はあるのでしょうか?)
 「おに」は大和言葉なのではないか、という説もあります。しかし大和言葉だとすると、それをなぜ十世紀の源順が知らなかったのだろうか?というのも疑問点として残ります。あるいは非常に古い言葉で、その頃には既に「鬼」という字と密接に結びつき、もう語源が不明になっていたのでしょうか?

 「おに」の初出は多分日本書記(720)の欽明天皇5年(544)12月の項だろうと思います。
     
『彼嶋之人、言非人也。亦言鬼魅、不敢近之。』
     (その島の人、人にあらずともうす。また、おにともうして、あえて近づかず)

     ◎
『有人占云、是邑人、必為魅鬼所迷惑。』
     (人ありて占いていわく、必ずおにの為にまどわされん)

 ここで「鬼魅」「魅鬼」という単語が出てきており、一般にはこれにどちらも「おに」と訓をつけています。
 しかし「魅」は「み」
(中国音mei)という文字ですから、この熟語を「おに」と読むのは苦しいかも知れません。
 具体的にはここに出てきている「鬼魅」というのは外国人の海賊か何かをさしているのではないかと思われます。
 また、日本書紀では斉明天皇の葬儀の時
(661)に、「朝倉山に鬼が出て大笠を着て葬儀をのぞいていた」という記述があります。
 初期の頃の鬼の姿で、笠をかぶり簑を着ているというのはポピュラーな姿でした。これはいわゆる稀人
(まれびと)の姿であり、現代でも秋田のなまはげにその名残を見ることが出来ます。
 この日本書紀の次は出雲風土記
(733)です。これの大原郡阿用郷の項に「目一鬼」(まひとつのおに)というのが出てきます。この地方に目一鬼が人を取って食ったという伝説があることが記述されています。この「目一鬼」は地方柄、天目一箇神(あめのまひとつのかみ)と関連があるのではないかと思われます。
 天目一箇神は出雲地方で盛んであった製鉄の神様で、一つ目の神様ですが、焼けた鉄を見つめている内に視力を失った人の象徴ではないか、と一般に言われています。(一つ目は太陽の象徴であり、太陽神ではないかという説もある。)
 ごくごく常識的な解釈をしますと、「目一鬼来たりて田作る人の男を食う」というのは、製鉄の作業に人手を強制的に徴用され、視力を失ったり命を落としたりした者が大勢いた、ということを表しているのかも知れません。
 鬼に似た扱いのものとして、まずよく言われる夜叉(やしゃ<ヤクシャ
羅刹(らせつ<ラクシャ)といったインドの鬼がいます。これは日本では法隆寺の玉虫厨子(600年頃)にも既に描かれています。恐らくは仏教の輸入とほぼ同時に、釈迦説話などとともにこういった鬼の姿も輸入されたのでしょう。
 つまり、日本人は既に7世紀には外国の鬼の絵姿を見ていたことになります。同じ仏教関連でも地獄の獄卒である、牛頭(ごず)・馬頭(めず)はどちらかというと中国起源でしょう。敦煌などからも出土しています。源信僧都が往生要集(985年)の中で言及しており、そのころには日本でも少なくとも一部の人には知られていたことになります。清少納言が書いた「牛鬼」もこの牛頭のことかも知れません。
 上記「不動利益縁起」の式神が鬼のような姿で描かれています。室町時代の人は式神というのを鬼のようなものと考えたのかも知れません。「鬼」という名前のつくものとしては、役行者(えんのぎょうじゃ)が使ったいた前鬼・後鬼というのもあります。これが何なのかというのは意見が分かれるところですが、式神のようなものではないかという意見も有力です。
 現代にみる牛の角を生やして虎の皮のパンツをはいた鬼については、いわゆる鬼門が東北の方位で、この方位は十二支でいうと、丑の方位と寅の方位の中間にあたるためである、というのが通説です。つまり「丑寅」の方角が鬼門なので、鬼は牛と虎の要素を持っているというわけです。
 節分の豆まきのセリフで「鬼は内、悪魔外」という地方があります。この「悪魔」あるいは「魔」とはお釈迦様が修行していた時に誘惑に来たものです。インドではマラと呼びましたが、これを中国語に訳す時に「魔」という文字を発明して「魔羅」と音写しました。この魔羅を略して魔といい、特に邪悪なものであることを強調するとき「悪」を付加して「悪魔」と呼びました。(男性器をマラと呼ぶのは、やはり修行中に誘惑する存在であるからです。ついでにいえばカルーセル麻紀が性転換手術を受けたモロッコの町の名前はマラケシでした。別にマラを消す町という意味ではありませんが・・・・・)。
 能面の「般若」は鬼のような顔をした女の面です。通常燃えたぎるような嫉妬を表す手段として使用されます。似た面に「蛇」がありますが、般若には耳があり、蛇は舌が出ていることで区別できます。基本的には「般若」の段階ではまだギリギリ人間ですが、「蛇」になるともう人間ではなくなっています。
 般若には、赤般若・白般若・黒般若の三種類があり、白般若は「葵上」、赤般若は「道成寺」、黒般若は「安達原」などで使用します。
 なお、もともと「般若」という言葉は仏教用語でパンヤの音写。智慧という意味です。これは知識よりも高度の精神的働きを表します。なぜ、その「般若」が鬼女の面になってしまったかというと、この般若面を最初に作ったのが、般若という名前の面打ち師であったため、というのが一番通っている説のようです。
 「北野天神縁起絵巻」には雷神と化した菅原道真公が清涼殿に雷を落とすシーンがダイナミックに描かれています。この雷神の姿はやはり鬼に似ています。
 一般的な「雷様」のイメージというのは、鬼と同じような姿で、太鼓を持っているものです。この太鼓を叩くと雷鳴が轟き、雨が降るということになっています。

 さて、現代の日本において、幽霊の存在は信じる人が多いですが、鬼の存在を信じる人は非常に少数だと思います。しかし「鬼」と呼んでよいものは確かに存在しているようです。これはたちの悪い悪霊の一種であると考えていただければよいかと思います。
 基本的にこういった「鬼」は陰陽五行説的に言えば陰(マイナス)の気が極端に集まったものです。
 そういう「鬼」が潜んでいる場所は日本中にいくらでもあるようです。そういう意味では「鬼」は「陰」と通じるものがあります。
 さて、
1000年前の源順は「鬼(おに)」を「隠(おぬ)」と考えて、「見えないもの」と考えたのですが、どちらかというと「陰(おぬ)」だったかも知れません。
 鬼はよほど強烈なものでないかぎり、一般の人の目には見えません。通常描かれる鬼の姿というのは、こういったものを感じ取ることのできる人が感じ取った雰囲気を絵にしたものでしょう。そういう意味では、あの鬼の姿は純粋な想像の産物とはいえない面があります。
 こういう霊感的な力というのはほんとうは誰にでもあるのですが、こちらから相手が見えると、それに相手も気付いて逆に危険ですので、普通の人の場合、小さい頃にそういう回路は閉じられてしまいます。しかしまれに、そういう回路が何らかの原因で閉じられなかった人たち、あるいは何らかのきっかけ
(一般には大病や臨死体験など)でそれが突然開いてしまう人もいます。
 こういった純粋な意味での「鬼」以外に、過去の日本の歴史の中で「鬼」として取り扱われてきたものがあります。それは「よそもの」です。
 日本書紀の欽明天皇の巻に描かれた「鬼」は実際問題として外国人のようです。民俗学者の一部には、「鬼」というのは通常暮らしている共同体の範囲外に住む人のことである、と捉える向きがあります。これは確かにそういう面があったようです。
 一般に昔の日本の村では、村の一番外側のところに、道祖神・地蔵・あるいは巨石・古木などがあって、そこが一種の結界になっていました。そしてその結界の外側に存在するものは「鬼」として処理されたのです。
 道祖神はその「鬼」の不法侵入を防ぐ働きがあります。これは仲のよい男女神なので、その間を無理矢理通り抜けようとすると、「邪魔するな」とばかりに跳ね返されてしまう訳です。
 この共同体の外のものを「鬼」とみなすという心理構図は、例えば「おむすびころりん」で穴の中に落ちたおむすびを求めて行くと、そこには鬼がいた、などといった話の中にも見ることができます。桃太郎も海を越えて鬼ヶ島に行きました。海はこの世界とあの世界を隔てる結界です。
 そして、この構図は戦時中に敵国に対して「鬼畜米英」という言葉を使ったところにも通じるものです。つまり日本という大きな結界の外にいるものは全て「鬼」だという思想がそこにはあったのでしょう。
 しかし、この「よそもの」は害をなす場合は「鬼」ですが、福をもたらす場合は「稀人
(まれびと)」になります。
 つまり「訪れる神」で、日本神話の世界でも、恵比須神・少彦名神・事代主神などがこの「稀人」型の神です。日本にはこういった「稀人」を迎え入れる神事を行っている地方があります。能登半島の「あえのこと」、男鹿半島の「なまはげ」などはそのタイプの祭と考えられます。沖縄方面にも海からやってくる神様を迎えるお祭りをするところがあるようです。
 日本とアメリカの関係も戦時中は「鬼」と呼んでいたアメリカを、戦後は一転して神様のように扱い、日本人はこの50年間、どんどんアメリカの真似をしてきました。やはり「おに」と「かみ」は転換可能な面もあるのでしょう。それ故に「鬼」の字を「おに」とも「かみ」とも読むのかも知れません。
 今年は2月3日が節分です。節分というのは立春・立夏・立秋・立冬の前日のことをいうのですが、特に立春が1年の初めと考えられることから春の節分が最も重視されており、一般には単に「節分」といえば春の節分を指すものとなっています。これは立春を新年と考えれば大晦日に相当する訳で、そのため前年の邪気を全て祓ってしまうための追儺(ついな)の行事が行われます。


 この5色の配置は五行をご存じの方でしたらお分かりの通り、各方角の色を使用したものです。 五行の配色は、木=青=東、火=赤=南、土=黄=中央、金=白=西、水=黒=北となります。牛を使っていますが、十二支の丑も五行では土に当たります。また12月というのも十二支でいうと丑の月です。また土牛だけでなく、そこに童子がいるのですが、童子というのは易でいうと艮(山)という卦になります。 これは方角としては東北、つまり丑寅の方位。丑月は12月、寅月は1月ですから、この童子というのは12月から1月への時間の切り替わりを表現しているのです。また丑寅の方位というのは、古来より鬼門と呼ばれ、鬼の出入りする方角でした。ですから、この土牛童子というのは、ここに各種の邪気を集めてしまうためのものともいえます。それを捨ててしまえば邪気は祓えることになります。
また、そもそも「鬼」という字は「おに」と読んでいる訳ですが、「おに」という日本語はもともと「おん」つまり「陰」のことです。目に見えない気、主として邪気のことを「おに」と言ったわけですが、十二支の丑というのも陰陽でいうと陰になります。色々とこの行事には符合があるわけです。ちなみに鬼が牛の角を付け、虎の皮のパンツをはくようになったのは後世のことです。このときも鬼門が丑寅の方角なので、牛と虎に関したものを身につけるようになった次第です。
平安時代の宮中の追儺の儀式では陰陽師が祭文を読み、黄金の4つ目の怖い面をつけた方相氏が矛と盾を持ち、その矛を地面に打ち鳴らしながら「鬼やらい、鬼やらい」と言って宮中を歩き回ります。そしてその後には殿上人たちが桃の弓と葦の矢を持って続くのです。桃や葦にも古来より邪気を祓う力があるとされていました。