花はパンジー。
花ことばは(愛の使者)
フランスではパンセといわれ、
その意味は花の形を物思いに沈む
人の顔に似せて思索といわれ
深く考える意味もあります。
誕生石
アクアマリン・珊瑚(コラール)
「この月は誕生石が2つあるようです」
宝石ことば
アクアマリン:沈着・聡明・・・・・
珊瑚(コラール):幸福・長寿・知恵
宝石からのメッセージ
アクアマリン:不老不死・海難防止・・・・・
珊瑚(コラール):魔除招福・厄除け
幹部会 | 第五吾嬬小卒業式 | 第五吾嬬小、卒業を祝う会 |
PTA総会 | ニ中卒業を祝う会 | 総務部、ふれあい協議会合同会議 |
防災コンテスト | 京成高架説明会 | 西八町会地蔵尊供養 |
今月は、企業や各種団体の決算期である。当町会もご多分にもれず期末到来である。熱さ寒さも彼岸までという通り、今年は、なかなか、温かくなって来ない今月の前半である。
3月早々には、春一番が吹き、気象庁の予報通り、春の訪れが早いかと思わせたが、三寒四温とは行かず1日置の変化の激しい今日この頃です。流感や花粉症が蔓延していて、あちこちでクシャミや目をショボショボしながら、暇にもかかわらず一生懸命頑張っています。
廃校になる第五吾嬬小学校、木下川小学校、更正小学校の閉校式典も3月1日の更正小学校を最後に終わり、涙して別れを惜しんだ諸兄も多かったことでしょう。私も、一個人として式典に参加しましたが、率直にいって、第2次世界大戦後に第五吾嬬小学校に入学し、通ったものして、あのスシ詰め校舎、低学年の青空教室や2部授業を経験した者、見て来た者としては、この様なさびしく、悲しい状況がやって来るとは、夢にも想像できなかったが現実は厳しく、やも得ないことと諦めなければならない日が、とうとうやって来てしまった。
在校生の現代っ子も同じだっただろうが、どの子も優しく、元気にお別れし、ひとことずつ全員がリレーしながら別れの言葉をのべ、そして、「学校=がっこう」作詞・作曲、林 光、「ひろい世界へ」作詞 高木あきこ・作曲 橋本祥路、の2曲を生徒全員で大きな声で合唱する頃には、目頭がウルウルしてきた。他校では、全員が参加することはないそうです。本校では、石田泰雄校長の肝いりで実現したそうです。続いて参加者全員で校歌を斉唱して、閉会の挨拶が終わると無事、式典は終了した。
彼岸
春分の日及び秋分の日をはさんで、それぞれの前後7日間をいう。初日を「入り」最終日を「あけ」という。春分は3月21日ころ、秋分は9月24日頃になる。この2季は共に昼夜等分する中道の時で、「暑さ寒さも彼岸まで」という諺(ことわざ)がある。この時期を彼岸というのは仏教思想に由来するもので、仏教では生死の苦しみに迷っている現世を此岸(ひがん)とするに対して、悟った涅槃(ねはん)の境地を彼岸(pa-ra)という。一般に到彼岸(波羅蜜=はらみつ=彼岸の悟りに到達した状態、または終了、円満の意味)として多く用いられ、ほどこし、戒を保つことなど6種の仏道修行をいう六波羅蜜が重要な修道の徳目となっている。浄土経典では、この世に対して弥陀(みだ)の極楽浄土を西岸とし、西岸にいたる間の火と水の河およびその中間の狭い道を、人間の迷いと往生を願う清浄な心にたとえている。
ところで、この彼岸が春分・秋分の2季の前後7日間に結びつき、彼岸会(え)の仏事をおこなうようになったのは、中国の浄土家がこの日、太陽が真西に沈むところから、日没のところに阿弥陀仏国を観想して、喜び慕う心を起すことを説くようになったことが初めらしく、大阪四天王寺で彼岸会に落日を拝む風習はここからきたものである。また、中国で作られた経典に説かれた立春・春分などの四季の8日に、仏事をおこなうと功徳があるという中国思想も加わったものであろう。
日本では806年の「日本後紀」のこの日に経典を読ませたという記事が最も古く、以来仏教界一般におこなわれ、彼岸に関する多くの日本製経典も生じた。中世ころから暦表にも彼岸を記するようになり、明治初年の神仏分離以来70年間春秋2季の皇霊祭として国家の祭日となり、第2次世界大戦後は春分の日、秋分の日と改められた。現今はこの7日間、諸寺では仏事をおこない、仏教徒の墓参がさかんである。
▼民俗
兵庫県の播州東部地方では、彼岸中日などに午前は「日迎え」といって東に向い、午後は「日送り」といって西に向かって山野を歩く習俗があった。
また、熊本県の阿蘇山麓地方では「彼岸ごもり」といって春秋に必ず登山する風がある。「こもり」は祭の意である。
鹿児島県出水郡にも同じように山参りの行事がある。山は田の神を迎え送るところであり、祖霊の往来する地でもあった。稲作の初めと終わりの時期に、古くから田の神を祭り祖先を祭ったのが、仏説と習合して彼岸習俗になったかと推定される。なお、春の彼岸に盆火と同様に万灯火をたく風が秋田県にある。
半蔵門線延伸
この線の最初の開業は、渋谷〜青山1丁目間が昭和53年8月1日に営業距離2.7qで始まってから終点押上まで全線が平成15年3月19日にようやく開通した。そもそも押上終点となったのは、営団地下鉄が来年4月1日に民営化されるために、これからは新線の工事は行わないと昨年夏、営団地下鉄(正式名称は、帝都高速度交通営団)の民営化法案が10月の臨時国会に提出されるという情報が情報通り可決され、経営リスクを伴う新線の建設は工事中の有楽町線の池袋〜渋谷間が完成後はないと明言している。
区間 | 開業日 | 路線距離 |
渋谷〜青山1丁目 | 昭和53年 8月 1日 | 2、7キロメートル |
青山1丁目〜永田町 | 54年 9月21日 | 1、4キロメートル |
永田町〜半蔵門 | 57年12月 9日 | 1、0キロメートル |
半蔵門〜三越前 | 平成 1年 1月26日 | 4,4キロメートル |
三越前〜水天宮前 | 2年12月28日 | 1,3キロメートル |
水天宮前〜押上 | 15年 3月19日 | 6,0キロメートル |
「東京地下鉄株式会社」として、営団から民営会社になり、民営化後は、既にある路線を快適に使っていただくことが主体に、仕事の中心が変わる。帝都高速度交通営団は、1941年公益事業を行うための特殊法人として設立された。与えられた役割は、首都での地下鉄建設と運営だった。とりわけ、巨額の資金が必要となる地下鉄の建設を、民間会社に担わせるのは難しいとの考えが当時の政府にあったいう。
それから60年余りを経て民営化される背景には、役割の一つの鉄道整備は、ほぼ達成されたいう判断。しかし、江東区、墨田区、葛飾区及び江戸川区など下町では、南北に通る鉄道は一つも無いのが現状なのに、達成されたという判断は時期尚早といわざるを得ない。
中でも葛飾区にとっては、都電が全盛の頃から一路線も敷設されたことが無い孤立無援の23区内の過疎地とされているのが悲しい。江東区、墨田区、葛飾区と松戸市が一緒になって、持ち回りで誘致の決起大会を毎年開いて、結束を確認し合い国や営団への要望を重ねてきたのが水の泡となってしまった。当町会でも代表が出席して運動に参加して少しでも役に立てればと力を入れていたが、町の活性化にも後ろ向きの、ますます人口の流失に拍車がかからなければいいが。