川崎大師


平間寺建立

 今を去る870余年前、崇徳天皇の御代、平間兼乗という武士が、無実の罪により生国尾張を追われ、諸国を流浪したあげく、ようやくこの川崎の地に住みつき、漁猟をなりわいとして、貧しい暮らしを立てていました。 
 平間兼乗は深く仏法に帰依し、とくに弘法大師を崇信していましたが、わが身の不運な回り合せをかえりみ、また、当時42歳の厄年に当りましたので、日夜厄除けの祈願を続けていました。
 ある夜、ひとりの高僧が、平間兼乗の夢枕に立ち「
我むかし唐に在りしころ、わが像を刻み、海上に放ちしことあり。己来(いらい)未だ有縁の人を得ず。いま、汝速やかに網し、これを供養し、功徳を諸人に及ぼさば、汝が災厄変じて福徳となり、諸願もまた満足すべし」と告げられました。
 平間兼乗は海に出て、光り輝いている場所に網を投じますと一躰の木像が引揚げられました。それは、大師の尊いお像でした。平間兼乗は随喜してこのお像を浄め、ささやかな草庵をむすんで、朝夕香花を捧げ、供養を怠りませんでした。
 その頃、高野山の尊賢上人(そんけんしょうにん)が諸国遊化の途上たまたま平間兼乗のもとに立ち寄られ、尊いお像と、これにまつわる霊験奇瑞に感泣し、平間兼乗と力あわせ、ここに、大治3年(1128)一寺を建立しました。
 そして、平間兼乗の姓・平間(ひらま)をもって平間寺(へいげんじ)と号し、御本尊を厄除弘法大師と称し奉りました。これが、今日の大本山川崎大師平間寺のおこりであります。
 法燈をかっかげて、悠久ここに870余年、御本尊のご誓願宣揚と正法興隆を目指す根本道場として、川崎大師平間寺は、今、十方信徒の心からなる帰依を集めています。

護摩

 護摩の修行は、奥深い内容を秘めた哲学的な意義と、真言宗という、正しい密教の教理に裏づけられた荘厳な宗教儀式であります。
 護摩とは、梵語でホーマ(homa)といい、「焚く」、「焼く」などの意味を持つ言葉で、仏の智慧の火を以て煩悩(苦の根元)を焼き尽くすことを表します。護摩は、御本尊の宝前に設けられた護摩壇の周囲に香華をはじめ五穀、お供物をそなえ、斎戒沐浴して心身を浄めた導師(修行者)が、中央の炉の中に護摩木を焚いて、御本尊厄除弘法大師さまのご供養をすることに始まる極めて厳粛な秘法であります。
 お大師さまの功徳と、浄僧のお祈りする功徳とそして更に皆様が信仰なされる功徳とが、完全に一つにとけ合い、厳しいお護摩の修法によってお加持された結晶が皆様に授与されますお護摩札であります。
 合掌して、お大師さまのご宝号「
南無大師遍照金剛なむへんじょうこんごう」を唱えてください。このお護摩によって、皆様の煩悩を焼き浄め、大厄を消除し、すすんで家内安全、商売繁昌、病気平癒、心願成就など、開運の祈願をなされますようお勧めいたします。
 ちなみに厄年は、男25歳と42歳、女19歳と33歳が本厄で、前後がそれぞれ前厄、後厄であり更に、男女とも還暦の歳、すなわち60歳が厄年に当ります。
 護摩札は災厄消除、家内安全、交通安全、商売繁昌、身上安全、病気平癒、心願成就、開運満足、入学成就、良縁成就、安産満足、海上安全、海外旅行安全、事業繁栄、工事安全、方除、虫封じ、その他諸願成就、御礼など。

薬研堀不動院(川崎大師東京別院) 東京都中央区日本橋2丁目6番8号

 大本山川崎平間寺東京別院「薬研堀不動院」のご本尊・不動明の尊体は、遠く崇徳天皇の代、保延3年(西暦1137年)に、真言宗中興の祖と仰がれる興教大師覚ばん上人が、43歳の砌(みぎり)厄年を無事にすまされた御礼として一刀三礼敬刻され、紀州根来寺に安置されたものであります。
 その後、天正13年(1585)、豊臣秀吉勢の兵火に遭いましたが、根来寺の大印僧都はその尊像を守護して葛籠(つづら)に納め、それを背負ってはるばる東国に下りました。そして、やがて隅田川のほとりに有縁の霊地をさだめ、そこに堂宇を建立しました。そもそもこれが現在の薬研堀不動院のはじまりである。
 昔、江戸華やかなりし頃、薬研堀不動尊は目黒、目白とともに江戸名所図会やその他の文献に記されています。霊験いともあらたかな薬研堀不動尊は、日本橋という繁栄をきわめた土地柄もあって、善男善女踵(きびす)を接して群参し、日夜香煙の絶えることなく、現在に至っている。当院の住職は、大本山平間寺貫主第44世・中興第1世大僧正高橋體V猊下です。
不動明王御真言
 のうまく さまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや うん たらた かんまん