(1)「吾嬬の由来」
吾嬬の地名が発祥したのは、北十間川ぞいにある吾嬬神社からで、その由来は日本武尊が東征のおり、相模の国観音崎の走水から、上総の木更津にわたるとき暴風雨にみまわれた。海を鎮めるために犠性になられた弟橘媛の流れついた着衣などの遺品を葬って塚としたのが、「吾嬬の森」八町四方といわれた。いいつたえでは、流れついた箸をさしたものが根付いて森になり、浮洲の森ともよばれたという。ここから縄文土器の深鉢が発掘されていて、境内には弟橘媛顕彰の「下総国葛飾郡吾嬬森碑」がある他に、天明元年建立の「吾嬬神社縁起碑」なども現存している。
(2)「吾嬬町の誕生」
元来この地域は、請地小村井葛西川の三村が併合して戸長役場を置いていたのが、「明治22年」に上・下の木下川と大畑、それに前記の三村が合併して、由緒ある吾嬬神社の社名をいただき吾嬬村としたのが始まりである。この時隣りの寺島村、隅田村も同時に発足したが、共通の苦悩は荒川の氾濫にとる度重なる水害であった。「大正元年9月」に吾嬬村から吾嬬町に改められたが明治22年に発足以来、実に23年の年月が経っていた。
(3)「吾嬬町の地勢」
この一帯は荒川と中川の流域のあって、地勢は平坦な低湿地であった。地質学上からみると未だ幼年期に属し、沖積層よりなる砂質粘土で、田が少なく畑ばかりであった。大畑方面(主として当町会内)は水田事情が悪いので、蓮田が多く、大畑以外の一帯は原っぱで、草原の所々にある小高い台地に人々は住んでいた。このあたりの人達は、原始産業である農業に従事している人が圧倒的だった。こに地域の特質は、都会文化に欲すべき道路交通網の欠如で、この欠点がどれ程、地域の発展を阻害してきたかは、計り知れない。因みに大正9年の吾嬬町全体の戸数は5,692戸、人口30,625人で、昭和5年には17,848戸、人口80,500人で10年間に、この時だけは約3倍に成長し、総坪数は298,200坪であった。
(4)「(吾嬬町西7丁目)から(八広)となる」
「昭和5年」に旧称の大字や小字が丁目に変わったのを機会に、全吾嬬町を二分して東の方面を東1丁目から東8丁目まで、西の方面を西1丁目から西9丁目となし、当町は「吾嬬町西7丁目」と称するようになった。当時の吾嬬町の中心部を貫通していた下水路の、中居堀を基準として分けられたもので、寺島町、隅田町は遅れること2年目にして、字から丁目に変更になった。「昭和40年12月1日」第4次住居表示が実施され、吾嬬町西7丁目及び8・9丁目の1部(八広4丁目)となり、寺島町8丁目と吾嬬町西7・9丁目の1部が(八広5丁目)となった。この八広は吾嬬町に西5・6・7・8・9・丁目、寺島町の6・8丁目、隅田町4丁目と丁目が‘8’つ、あったので、末広がりの縁起と、字画の簡明さで命名された。
(5)「吾嬬町西7丁目町会の誕生から八広あずま町会の発足」
昭和13年4月、東京市町会基準から隣組制度が生まれたのが町会に前身で、太平洋戦争突入後、戦時体制の国策遂行と、市民生活の安定確保を期して、昭和18年5月に東京市「町会規定」を新たに実施した。1町会400世帯から600世帯とする町会の整備統合がおこなわれ、その後昭和22年に本所区と合併し「墨田区」と組織が変更されたが、当時は殊のほか治安が悪かった。為に本所と向島にそれぞれ防犯会が設立された。そして向島防犯会から分離して、「吾嬬西7防犯会」が誕生したのが(当町会創立)の第1頁である。(初代会長に丸山川吉氏が就任され)「昭和27年」に東京市から、自治会が承認されたので、これを契機に(吾嬬町西7丁目町会)が誕生した。初代会長伊佐治三郎、2代目坂本浅次郎、3代目福岡春太郎、4代目藤原 庫、5代目小川泰三、6代目宇田川豊次郎、7代目羽住亀吉、8代目岩井信治各氏で、今日の町会発展は、歴代町会長を始め役員各位の深甚なるご尽力の賜であることは、論を待たない。小川5代目町会長当時の「昭和40年12月」前記の住居表示が実施された際に、「吾嬬町」から「八広」と町名が改称されたこの機会に、(八広あずま町会)と改め現在に至っている
(6)「町会内外の背景
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(7)「町会周辺の文化」
(イ)やくしみち道標
八広4丁目交番の中央通りに面した植え込みの中にあるこの道標は、昭和40年頃下水工事のとき掘り起こされたもので、木下川薬師への道標どぁる。享保年間に将軍吉宗公が薬師参拝の際(1717年)大畑村の人々に建てさせたものである。正面に「右、やくしみち」、右面に「左、ゑどみち」、左面に「大畑村講中」と書かれているが、薬師参りの人々に長い間、道案内をして来たものである。「ゑどみち」は江戸への道のことで、木下川薬師は貞観2年(860年)浄光寺として、創建されたと伝えられている関東屈指の名刺である。現在この寺は葛飾区東四つ木1丁目にあるが、荒川開削以前は木下川の下流にあった。したがってこの道標も、初めからこの地に在ったのではなく、他から移されたもののようである。
(ロ)庚申堂
八広5丁目の中央通りと、はなみずき通りが交差した横丁の露地を入った4軒目にある石造りの庚申堂は、向かって左から享保5年(1720年) 9月吉日、大畑村地蔵尊講中による地蔵尊菩薩像で中央が元禄2年(1689年)大畑村、森田平兵衛他、11名により建立された板駒型庚申供養塔、右端に観音菩薩像が祀ってある。境内には馬頭観音の石柱があり、入って右側に大正14年に安置された、南葛88ヶ所の内、54番札所の、災難厄除大師の大師堂があって、毎年10月20日に5ヶ町会の人達が集まって庚申際を行っているが、戦前は縁日が開かれ大賑わいであったという。
(ハ)三輪里稲荷神社
真言宗知山派の正覚寺と背中合わせのところにあり、慶長19年(1614年)、出羽國(山形県)湯殿山の修験者といわれた大日坊長が、大畑村の総鎮守として、羽黒大神の御霊の分霊を勧請し祀ったのが、三輪里神社である。この当時江戸市中に悪病が流行ったため、大日坊長は湯殿山の秘法「こんにゃくの護符」を串に刺して人々に授与した。初午の日にこの護符をいただき、煎じて呑めば咽喉や声の病に神験あらたかといわれて、護符を求めて集う人達で賑わった。町会の神輿は昭和27年9月7日、西七神社睦の手によって新調され、睦長が大熊仲次郎氏、副睦長が小用繁次郎氏で、祭礼はこの睦によって運営されていたが、後に睦が解散し町会1本立てで奉納されるようになった。
(ニ)古伊万里資料館
八広中央通りから道1本入ったエーエス自動車整備工場2階の、一見すると普通の住居のようなドアをあけて館内に入ると、そこには見事な江戸の文化が広がっている。まるで江戸時代の武家か町人の屋敷の一間にタイムスリップしたかのようだ。帳場箪笥などのさまざまな種類の箪笥や飾り棚、火鉢に刀入れ、水屋ふうのショーケース、有田地方で生産された古伊万里焼きの大皿や湯呑や小鉢などが、過去から未来を連想するかのように並べられている。ここに集められている古伊万里は藍色で描かれた図柄が蛸の足を図案化した「蛸唐草」と呼ばれる4百点の逸品ばかり。これを収集された館長の應後氏は、自身に夢と希望を与えてくれたので(ゆめ唐草)と名付けられた。千差万別のこれらの模様は見飽きることのない美しさで、江戸時代の町場の雰囲気をかもし出している。古い箪笥に掛けられた花模様の藍染布や、その上にさり気なく置かれた一輪挿し、窓の障子や間仕切りの板戸など、どれひとつ取っても、古伊万里と絶妙にマッチしていて、如何にも生まれた時代を彷彿させる貴重な骨董品ばかりで、開館日は毎週、土曜日である。
(ホ)八広中央通り
当町会の4丁目と5丁目を分ける八広中央通りは、以前はそのものズバリ「疎開道路」と呼ばれていた。太平洋戦争の戦局が急迫する中、首都防衛の号令下、密集していた木造の住家を、戦車や学徒動員兵らが一挙に取り壊し、僅か1年余りで完成させた道路である。東京大空襲では、この道を多くの人達が荒川へと逃れ、九死に一生を得たといわれる。明治通りから荒川放水路に向かう1.3km、幅11mのこの区道は、国が道路新設を計画して、強制買収をしたもので、「町中総懸かりで、慣れ親しんだ町並みの一軒一軒に、綱をかけて泣き泣き引き倒した」と言う土地の人達の辛い犠牲の産物である。当時、都内の各地で行われた空襲による延焼防止の建物疎開と混同され、誰言うとなく「疎開道路」という名がついたという。昭和19年の末には未舗装ながら南北にのびた地元最初の、直線大通りが完成したものである。(大空襲の時は、猛火を逃れて布団など引きずるようにして荒川に逃げたが、この道のお陰で大勢の人の命が救われた)と、戦禍を越えて息つく先人達の誇り高き心意気が気骨溢れる町の人達の暮らしが、ここには生き続いているのだ。中央通りにも一時期浅草寿町行きの都バスと京成バスが運行していたがまもなく廃止された。
(8)「想い出のままに」
1 遠い遠い昔々の大昔東京湾の海は上野の山から王子赤羽を経て、市川の国府台に連なる台地下まで打ち寄せていた。時代が下ると利根川の本流は、埼玉県の吉川で荒川と合流し、最下流の州田(隅田)あたりで住田川となって海に流れ込んでいた。上流から絶えず土砂が運ばれて出来あがった洲や島に、台地から降りた人々が住みついたのが当地の歴史の幕開きである。陽が昇り陽が沈み、月が出て星が輝いて10年が過ぎ、100年が過ぎ、500年が過ぎ気の遠くなるような幾星霜が過ぎさって、江戸時代から明治、大正となった。この地域は大震災の大きな被害を免れたので、どっと人が流れ込み、田んぼや蓮田を埋め立てて、曲がりくねった小道にそって、家々が建てられていった。まばらであった町も次第に人家が増加して昭和の御世となった。昭和の初期のこの町の様相はどんな姿であったろうか、残念な事に当町会附近の資料は史跡を除くと、区にも図書館にも全く見当たらなかった。そこで何代もこの土地に住んでおられる石渡政彦氏、丸山幸儀氏、松丸寛一氏のご三方に想い出の糸を手繰って頂き、そこの中の1コマ1コマの挿話を、当町会内の昔を偲ぶ縁にして頂ければ幸いと、綴ってみたものであります。
2 曳舟川から薬師橋を渡ってすぐ川沿いを右に曲がると、今も現存している向島警察寮の真向かいにあった食料品店の2階に、小さな寄席があった。橋から曲がらないで真っ直ぐ来ると、京成電鉄の踏み切り(近い内に高架に)の手前に子育地蔵が在る。曳舟川の埋め立て工事の際、川底から出てきた地蔵尊で、この踏み切りを挟んで互い違いに上り下りの向島駅のホームがあった。ここを右に曲がると大都映画館があって、この南龍館通りは夕方になると一杯の人出で、向島銀座と言われる程賑わった。下り線の改札口の所に向島マーケットが在った。ここを左に曲がると天理教があって庚申堂に至る。割合真っ直ぐなこの1本道を、馬車に乗って木下川薬師に参拝に行った所から馬車道と呼ばれ、庚申堂の馬頭観音が祀ってあるのも納得できる。
3 その当時には戸口洋品店の斜め向かいに大畑巡査派出所があって、そのまま行くと但馬屋の前に出て、日興信金の前をよどんだドブ川と交差する。このドブ川は当時の貴重な排水路で、曳舟川から京成電鉄のガード下を潜り、日野宅の前を流れて矢作宅から石渡内科医院に至り、(先は正覚寺の方へ)その先田辺工業所で左に曲がる。そして今は無き森田珠算塾の前を流れて行き着く先は中居堀らしかった。梅雨どきから夏にかけて雨が降ると、この近くは川が溢れて金魚が良くとれたと言う話で、石渡内科医院に入る手前角の、石造りの質蔵は当時新興キネマ専門に上映していた東成館の、映写室に当たる所で、石渡家から東成館に貸してあった場所であった。小学生や小若連中は、夏の最中にも水溜りが多い川淵を歩いて、活動写真を良く見に行ったという事である。この頃に曳舟川やこの川の底をさらって金物を拾い集めて、日銭を稼いでいた人達の、1日の実入りはいくらだったろうか。当時は浅草へ行くのには、向島駅の1つ先に京成と東武のそれぞれの請地(浮地からきた名)駅が隣接していたので、すぐ乗り換えが出来て便利であった。京成は浅草新進出の計画のもとに白鬚橋のたもと迄延長していたが、後に廃止された。
4 この町の旧家は聞く所によると、上大畑は、植松、宇田川、増田、本多家で、増田家の先祖は遠く鎌倉時代に発祥し、北条氏のもとにこの地の開拓に従事され、子孫は代々植木職で判明している初代のご位牌には、安永6年(徳川家治時代)没と書かれていた。ご当主は8代目に当たる。本多家は390年前、慶長年間の徳川秀忠の重臣、本多平八郎忠勝の孫で「一如玄庵主」を先祖として13代目になるとの事。本多家一族の家系図の他に、代々伝わる膨大な資料の中に、昭和5年10月31日付の、吾嬬町西7丁目町会創立の発会式の案内状が入っていた。8ヶ町会が合併し代表が本多平左衛門となっていて、会場の入場券まで添付されていた。町会(細則)を見ると、庶務部、祭事部、教育部、兵事部となっていて、兵事部の業務は召集と徴発等に関する事務及び、入退営者に金弐圓也を送り、理事が歓送迎をなすと印されているのが、時代の変遷を浮かび上がらせている。残念な事にこれ以後の町会の動きが全く不明で、自然に町会も消滅したようである。こ時代は浜口内閣による金解禁で超不景気の上に、米価と生糸の大暴落による農村恐慌は凄まじく、デフレ経済の悲惨な状況が、大切に保存されていた資料の中にあった昭和5年12月10日付の、朝日新聞の1面のトップ記事に掲載されていた。下大畑の旧家は森田、里見、石渡家で、中でも石渡家は1850年代(徳川家定)の安政年間に何代目かの先祖がこの地に植木職として根を下ろし、石渡先生は9代目に当たるとの事。この町の旧家の先祖に植木職が多かったのは、大畑が農業に適さず、その反対に向島や北十間川を境に本所川側は、諸侯の上屋敷と旗本の邸、さらに神社やお寺が多く、築山や庭園の植木の手入れが必要であったので、大畑の人々の職場があったものと考えられる。
(9)結び
こうして大昔からこの土地に住んでいた先祖が、何処にも移らず根をはり枝をのばし、四方の梢にこち風を添えてくれたお陰で、今や花開き、八広中央通りにも、はなみずき通りにも高層マンションが次々と建設され、八広駅も1日3万人の乗降客(現在は8千人)を見こんで、近代的な駅舎に生まれ変わった。伸び行く我が町の未来が光り輝き、誇りと力と夢が21世紀を拓く礎となるものと確信致しております。このような覚束ない記念誌で、赤面の至りでありますが、これも縁と思召して、折々に皆様が杯を傾け、町の先人を偲びその来し方、行く末に想いを寄せられるとき、この小誌がいささかでも、その、よすが(縁)となれば、身に余る光栄であります。
創立50周年記念誌
平成10年(1998年)10月(文)森 準平 町会長