8月の活動状況

ヒマワリ。
花ことばは(敬慕)
学名は日本名も
イギリス、フランスそして中国名も
すべて「太陽」からとられている。

8月生まれの方へ
誕生石
ペリドット(カンラン石とも呼ぶようです)
宝石ことば
夫婦愛・夫婦の幸福・豊穣
宝石からのメッセージ
心の喜び・知恵と分別




西八町会盆踊り 子供会反省会 城南島施設見学会
防犯灯点検 公報委員会 神輿渡御打合せ会
第4回薬剤散布 防災講習会 厚生委員会





 今年の盆踊りは、西八町会と隔年で開催するという事になり、まず、隣りの西八町会内の西八公園で、8月2、3,4日と三日間行われた。初日はあいにく雷が鳴りだし、おまけに雨も降りだし、最悪のコンデションだった。
 昔から雷三日といい、言い伝え通り雷が響き渡る中で行われ、何時になく参加する踊り手が少なく、他で行われた盆踊りも踊る輪の数も少なく、おまけに、その輪も小さかった。
 個人的には、小学校の統廃合で第五吾嬬小学校が、今年度いっぱいで廃校になるので、両町会で、校庭を使って合同の盆踊りを行っても良かったのではないかとも思った。
 なぜなら、来年は三輪里稲荷神社の3年に1回の大祭が行われるので、当然盆踊りは行われない。すると、当町会の主催で行う盆踊りは3年後でなければ、踊る事も見ることも出来なくなってしまうことになる。





 8月の第2日曜日の11日には、厚生部の主催の下水処理施設の見学とバーべキューが、大田区の城南島で、今月一番暑かった日にバス2台に分乗して80数名が参加して賑やかに行われた。
 部長はじめ、数名がテントや機器をトラックに積んで一足早く出発して、場所の設定やら、用意万端整えて、待っていた。
 鉄板の上には、今、盛んに話題になっている牛肉や他の肉と野菜が、大山になって乗っかり、豪快に料理されていた。
 気温も昼前に30度を越え、火のそばには野天といえども5分とはいられないぐらいで、クラクラしそうだった。
 それでもテントの中や野天で、子供も大人もおいしそうに頬張っていたのが、印象的でした。中には附近の東屋で談笑したり、へたばって寝転んでいたり、そんな中でも、一生懸命世話をやいている元気な役員も大勢いました。
 終わり近くになると、日焼けした顔や半袖から出ている腕が、やたらと真赤に、まるで海水浴にでも行ったようだった。   
 こんな暑い暑い1日、ご苦労さんでした。


集合場所

汚泥処理工場

城南島キャンプ場

首都高速湾岸線から羽田線への迂回路



城南島見学
会計報告書
(汚泥処理工場とバ−ベキュ−)

収入の部

支出の部

科目

摘要

金額

科目

摘要

金額

リサイクル収益金 279,581 賄費 食材、燃料費他 173,531
参加費(参加大人76名、小人13名)  76,000 交通費 バス2台、高速料金 143,600
  入場料 キャンプ場  17,700
  景品代 宝探し用   7,350
  駐車場代 4台分   3,250
  保険料 傷害保険   6,650
  雑費 リボン代   3,500
合計   355,581 合計   355,581

上記の通り会計報告いたします。
 平成14年8月19日
                               八広あずま町会会長  森     準平
                                     担当副会長  吉原  好太郎
                                     担当  会計  本多    清司        

               



 

マッカーサー日本着(1945年)

 昭和天皇の玉音放送が流れて全国民に敗戦が知らされてから15日後、1945年8月30日の14:0 5。パイブをくわえた粋な姿の連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥が「バターン号」から厚木 飛行場に降り立ちました。 これから朝鮮戦争における発言の責任を問われて解任される1951年4月11日まで2050日間、日 本はこの類い、希な理想家の支配下に置かれました。  マッカーサー元帥は随分「名言」を遺した人です。太平洋戦争中の1942年3月11日フィリピンで日本 軍の攻撃を受けやむなく退却した時は「I shall return.」と言いました。willではなくshallと言った所が 彼の軍人らしい強い意思を表しています。そしてその言葉は昭和19年実現されレイテ島で日本軍を壊 滅させ、「フィリピン国民諸君。私は戻ってきた」といって、政権をセルギオ・オスメニア大統領に引き継 ぎます。  そして日本降伏。430隻もの大艦隊を27日には沿岸に並べ、28日先遣隊146名が厚木到着、そし てこの日元帥自身が堂々とした姿で到着した。この間に日本がやったことはどうもなっていません。終戦 後すぐの17日に発足した東久邇宮内閣は「一億総懺悔」などと発言して顰蹙を買います。8月23日の 朝日新聞は「婦女子は外国軍人に隙を見せないよう」などと報じ、27日には内務省が占領軍用の『慰 安施設』を設立して、慰安婦を募集しました。が、これも批判を浴びてすぐに閉鎖されます。さてマッカー サーは9月2日に東京湾に浮かぶミズーリ号の上で日本の無条件降伏に対する調印式。そして「東京 には進駐しないで欲しい」という日本政府の声をあっさり無視して9月8日8000人の将兵を引きつけて 威風堂々と東京に入り皇居をしっかり見下ろすことのできる日比谷の第一生命ビル(現DNタワー21)の 6階正社長室に執務室を置いてGHQの指揮を取りました。  9月27日には天皇がマッカーサーを訪問。この時背が低くピチっとした正装の天皇と背が高く開襟シャ ツでくつろいだ姿のマッカーサーが並んだ写真は全国に新聞を通して出回ると、日本人に改めてこの戦 争に負けたのだ、という意識をはっきりと植え付けました。  この「自分はいかになろうとも万民を助けたい」という天皇の気持ちは戦後も一貫している。そして、ご 自分自身で戦争の全責任をとろうとされていた。例えば、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥との会 見で、天皇がその気持ちを伝えられたということは有名な話として広く知られている。両者の会見は全部 で11回行われたが、特に天皇がこの気持ちを申し出られた昭和20年9月27日の第一回会見が最も 注目される。実はこうした会見内容は互いに他言しないことになっていた。それでも通訳のメモを侍従長 が目を通して天皇に提出したとか、あるいはマッカーサー元帥のほうが日本人にもらしたり、回想記に書 いたりして、いろいろな形でその一部がわかってきた。『天皇語録』には次の三つの内容で、第1回のマッ カーサー元帥との会見での天皇の発言が掲載されている。 (1)敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は私 の任命する所だから、彼等に責任はない。私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。 この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい(『侍従長の回想』173ぺージ)。 (2)私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対する全責任を 負う者として、私白身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためにおたずねした(『マッカーサー回 想記』(下)142ぺージ)。 (3)自分は今度の戦争に関して重大なる責任を感じている。従って絞首刑も覚悟している……又皇室財 産は司令部の処置に任せる……自分自身はどうなってもよいから、どうか日本国民をこの上苦しめない で貰いたい……(『天皇秘録』117ぺージ)。    それぞれニュアンスは違うが、主旨はほぼ一致している。また、この内容は、昭和30年に、当時の外 相重光葵氏がマッカーサー元帥から直接聞いて、読売新聞に掲載した内容とほぼ一致する。さらに昭和 23年11月に、極東軍事法廷のキーナン検事が天皇の不起訴理由を発表した中で次のように述べている。  証拠の示すところによれば、……天皇が終始、平和を望んでいたことは、はっきり証明されている。…… マ元帥が余に語ったところでは、天皇は、証人に出廷したら、我々が証拠によって見出した天皇に有利な 事実をすべて無視し、目本政府のとった行動について、自ら全責任を引受ける決心があったという。  マッカーサー元帥がキーナン検事に、天皇は自ら全責任を引き受ける決心だと語っていて、やはり右記 のような天皇の申し出の内容を裏付けている。  このように天皇はマッカーサー元帥に、一身を投げ出して自ら全責任をとることを申し出られた。しかも そのときでも「この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」と申し出られる など、国民のために最善の努力を尽くしておられたのである。  こうして結局天皇は、ポツダム宣言にもとづいて連合国の意向と日本国民の意思に、身をゆだねられた のである。  アメリカが最も恐れていたのはこの敗戦を契機に日本に共産主義革命が起きることでした。当時日本の 敗戦が確実となってきた段階でアメリカにとって最大の敵はソビエトだったのです。そこで日本降伏のすぐ あと8月16日にはトルーマン大統領が「日本は分割統治しない」と言明、マッカーサーも天皇と会ってこの 人物は利用できると判断すると敢えて天皇の戦争責任は問わずにその天皇を中核にして日本をアメリカ にとって都合のよい国に変身させる政策を取り始めます。そのためには日本国民に今まで敵国として憎ん でいたアメリカを魅力ある国と思わせる施策が必要でした。そこで最初にとったのがアメリカの豊かな物資 を食う物も食えず、着る物も着れずにいた日本人の前に見せつけることでした。  占領軍(日本ではこの言葉を嫌って進駐軍と言い続けた)のジープは子供達にチョコレートをどんどん配 り、Come on!children、 chocolatis for you!「ギブミー・チョコレート!」そのほかにもチーズ・バ ター・ビスケット・タバコ・チューインガム、アメリカ兵たちはどんどん物資を日本各地で配った。 アメリカ兵や家族向けの施設のショーウィンドウにも色鮮やかな食品・衣料品・日用雑貨が高く積まれ、 通り行く日本人たちの目を奪いました。  一方、GHQは日本の非軍事化と民主化を強力に推進した。教科書の黒塗り、政治犯の釈放指示、治安 維持法の廃止、軍国主義者の教職員追放、戦争映画の禁止、航空機開発・原子物理学・テレビ技術・暗 号技術の研究の禁止、陸軍省・海軍省の廃止、修身及び日本史の授業停止、そして財閥解体、農地改革、 そして年が明けて1946年になると天皇自らが、全国を行脚して国民を力づけた。その姿を見た国民は、 国民こそが国の主役なのであると、いう民主主義というものの意識に目覚めた。それは戦時中強制された 「国のため」という名のもとにさんざん虐げられて来た人々にとって新しい価値観を創造するものでした。  1946年3月6日新憲法の草案発表。マッカーサーは最初新しい憲法を作るよう日本政府に指示しまし たが、政府が持ってきた案はあまりにも話にならない代物でした。そのためマッ カーサー自身がその骨格を書く羽目になりました。この憲法にはマッカーサーの理想が多く含まれていま した。軍隊を持たない平和国家。  象徴としての天皇。全ての国民が平等であること。言論の自由。男女差別の撤廃。労働者の権利の保護。 GHQ内部にさえも日本から軍隊を無くしたら日本は敵にもならないかも知れないがアメリカの味方にもなら ないのではないかと強い異論がありましたがマッカーサーは押し切りました。  4月10日女性も参政権が認められた新選挙法による総選挙。39名の女性議員が誕生。この新国会で 憲法案は審議され10月7日可決。11月3日発布。翌年4月から新しい六三制学校制度。5月3日新憲法 施行。民主化はどんどん進んでいきました。国民も復興に燃えていました。  しかしやがて暗雲が立ちこめ始めます。1948年朝鮮半島に大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国という 二つの国家ができてしまいました。そして1949年10月1日には北京(ペイチン)の天安門(チエンアンメン) 広場で毛沢東(マオツォートン)は中華人民共和国の成立を宣言。マッカーサーは理想を曲げて日本に再 軍備をさせる必要性を感じ始めました。翌1950年1月1日「日本国憲法は自衛権は否定していない」と年 頭の声明で述べます。  そしてとうとう6月5日朝鮮戦争勃発。マッカーサー元帥は国会を通さない超法規的な命令であるポツダ ム政令により警察予備隊を設置させ、カービン銃で武装した紛れもない軍隊を誕生させました。マッカー サーは奇襲攻撃により9月15日北朝鮮から首都ソウルを奪回、これに対して北朝鮮は中国軍ソ連軍の 支援を受けて対抗、10月25日再びソウルを奪います。これに対してアメリカも大量に戦力を投入して翌 年3月14日、再度ソウルを取り戻しました。この間日本は、この戦争にともなう特需で沸き復興に拍車が 掛かります。そして20日マッカーサーは「中国本土攻撃も辞さない」と威嚇。しかしこれがトルーマン大統 領の逆鱗に触れました。  何とか早めに戦争を収拾したかったトルーマンは「勝手にそんなことを言うのは大統領の権限への挑戦 である!」と怒り、マッカーサーを解任します。4月11日。アメリカ軍にとってもマッカーサーにとっても、そ して日本国民にとっても突然のできごとでした。16日マッカーサーは大勢の日本国民に暖かく見送られて 日本を去ります。この様子はテレビが全国に実況中継し、国会もマッカーサーへの感謝の決議を行いま した。  帰国後マッカーサーはアメリカ国会で演説。最後にこう述べました。    「老兵は死なず。ただ消えゆくのみ」    『ダグラス・マツカーサー』Douglas macarthur 1880年1月26日、アーカーソン州リトルロック生ま れ。第一次世界大戦・第二次世界大戦・朝鮮戦争に従軍。極東軍総司令官、GHQ最高司令官。1964 年死去。