2月の活動状況
2月……花は水仙。花ことばは(神秘)、
水鏡に写る自分の姿に恋をした
ギリシヤ神話のナルキッスが学名ですが
(片想い)という意味もあります。


誕生石
アメシスト(アメジスト)
宝石ことば
誠実・こころの平和
宝石からのメッセージ
何事も用心人生の悪酔いを排除
アメシスト(アメジスト)の種類
1種類しか無いようです


 

町造り協議会 ニ中青少年育成委員会新年の集い 節分祭
統廃合協議会 愛護委員説明会 広報委員会
初午祭 若葉会新年の集い 日朝親善の集い
幹部会 春の火災予防説明会  





 昔から、にっぱちといって2月と8月は何かと動きの鈍い時節です。おもだった新年の顔合わせや集いも一段落し、一年中で一番寒い季節も変わろうとする変節気です。2月3日は節分で、ちょっと前までは各家庭で玄関や窓を開けて大きな声で、「福は内、ふくはうち、鬼は・・・外」と大人も子供も隣近所に負けないように叫んでいたが、今では神社仏閣で有名人や話題の人を招いて、時間を決めて華々しく行われる程度になってしまいました。
 明けて4日は、暦の上では待ちに待った立春です。今年は、1月に2回ばかり大雨(21日、28日)があったりしたので、テレビの天気予報士は、しきりに、あたたかい予想をしています。
 この時期になると、3寒4温という、言葉を耳にします。雨が降るたびに3日寒く、そして、4日暖かい日が続き、知らぬまに、大気も温んできて、あちこちの梅だよりもあり、長い冬とも「さよなら」する日も近くなります。
 今年の三輪里稲荷神社(通称こんにゃく稲荷)の初午も2月7日(木)にあり、氏子や近隣から毎年、大勢の人々が参拝に来られました。
 慶長19年(1614年)、出羽國(山形県)湯殿山の修験者といわれた大日坊長が、大畑村の総鎮守として、羽黒大神の御霊の分霊を勧請し祀ったのが、三輪里神社である。

 この当時江戸市中に悪病が流行ったため、初午の日に大日坊長は湯殿山の秘法「こんにゃくの護符」を串に刺して人々に授与した。この護符をいただき、煎じて呑めば咽喉や声の病に神験あらたかといわれて、護符を求めて集う人達で賑わった。という、ありがたい神社です。
 




花言葉
「スイセン」

 春まだ浅い季節、スイセンが凛とした美しい姿をあらわす。雪中花ともいわれるスイセンは、雪の中でも香り高い花を咲かせる長く伸びた茎の上に咲く白い上品な花は、見ているだけでも心が静まり、落ちついていくのを感じたものだった。開花時期も異なるため、長く楽しめる花。大輪のラッパスイセンなどは、特に華やか。黄ズイセンは小さめながら、みごとな芳香をはなつ。
 そこはかとなく神秘的な雰意気さえ漂わせるこの花は、美少年ナルキッソスの花として気位が高く、妖精たちの誘いには目もくれないほどだった森の泉の中の精に恋をして泉に映る自分自身の姿だと気がつかないまま、恋いこがれてついには泉に身を投じてしまう。泉のほとりに咲いたスイセンの花に、彼の名前がつけられたというギリシャ神話だ。

 名前の由来にはもうひとつの説があり、それはギリシャ語の「麻酔」(ナルキソス)。スイセンの地下茎には、神経を麻痺させる成分が含まれているからだって。
 ロマンチック説と現実説・・・・・・・・・・・皆さんはどちらの説を取りますか。


 

バレンタインデー 

 ローマ皇帝クラウディウス(在位268−270)は強い軍隊を作るため兵士の結婚を禁じていたが、バレンティヌスはそれを無視して兵士の結婚式を執り行ってやった。これをとがめられてバレンティヌスは逮捕され処刑されることになったが、このときアステリオという判事の手で取り調べを受けた。

 このアステリオには目の見えない娘がいたが、この娘が取調中のバレンティヌスと密かに心を通じ合わせるようになり、その愛の力で彼女の目が奇跡的に直ってしまった。それを知ったアステリオはバレンティヌスに感謝し、一家そろってキリスト教に改宗してしまった。
 ところがその件が市長に知られると市長はアステリオの一家を逮捕し全員処刑した。そしてバレンティヌスは悪の張本人として数々の拷問を受けたあげく最後は棒でなぐり殺された。
 中世ヨーロッパで聖バレンタインは愛の守護神とみなされるようになり、14世紀頃からこの日に恋人たちが贈り物やカードを交換するとか、その日の最初に出会った異性を「バレンタインの男性」「バレンタインの女性」と向こう一年間呼び合うという風習などが出来てきています。そしてこれが第一次世界大戦後にアメリカで急速に恋人達の日として普及し、日本でも昭和50年代前後から「女性が男性にチョコレートを贈って愛を告白する日」として広まりました。現在国内の調査によれば約60%の女性がこの日にチョコレート等の贈り物をしているとのことで、チョコレートの消費量もこの時期に年間の2割程度を消費しているようです。

 なお日本で最初にバレンタインデーの広告を出したのは昭和11年のモロゾフだそうで、その後戦争の時期を経て昭和30年代ころにデパートが単純に恋人に贈り物をする日として宣伝したようですが、その時はそれほど定着はしなかったようです。チョコレート業界では昭和33年にメリーの営業主任であった原邦生氏(後社長)がヨーロッパの知人からバレンタインの話を聞き、新宿伊勢丹デパートでキャンペーンセールをしたものの、最初の年はそのコーナーではチョコレートはわずか5個!170円分しか売れなかったとのことです。その頃からメリーと森永だけが毎年バレンタインの広告を出していましたが、やはり定着するには昭和50年頃を待たなければなりませんでした。




本場リオのカーニバル
 
エスコーラ・ヂ・サンバ(サンバ学校)

 エスコーラ・ヂ・サンバとは直訳するとサンバ学校となります。しかし、学校とは名ばかりで実態は地域のコミュニティーといった感じです。
 それでは、何故「学校」なのでしょう。
 1920年代、主に黒人を中心とした低所得者層は、モーホと呼ばれる裏山や、都市周辺部で暮らしていて、そこにはブロコまたはコルダォンというサンバのコミュニティーが形成されていました。当時、貧しい黒人達が街に現れる機会は殆ど与えられなく、増してやこのコミュニティーが、街の中心部で演奏することは不可能に等しいことでした。しかし、何とか大手を振ってカーニバルの街へ繰り出せるようにと考え出されたのが、エスコーラ・ヂ・サンバと言う名称です。つまり、年に一度のサンバ学校の発表会というタテマエなのです。
 1935年になると、この「学校」も「グレミオ・ヘクレチーヴォ(娯楽団体)」として公に認められ、以来、年々その規模と華やかさを増しつづけ現在に至っています。

スルド

重低音の大太鼓。サンバのリズムの屋台骨2拍子を叩き出す最も重要な楽器。

ペピーキ・ジ・マンゥ


小形の太鼓で主にパゴージで使用される。小脇に抱え、スティックは使わずに素手で叩いて演奏する。

クィーカ


プイータとも呼ばれる。フリクション・ドラム(摩擦太鼓)に分類される。最もブラジル音楽らしい音(豚の鳴き声?)を出すと言われる。構造は片面に張った皮の中央に竹棒の先端をくくりつけてあり、金属、木、プラスチックなどの胴が共鳴するようになっている。演奏は、この竹棒を濡れた布などで擦るのだが、棒のくくりつけられた部分の直近を指でミュートすると高い音が出る。基本的にはミュート、オープンの2音階しか出ないが、名手になると皮のミュートの強さをかえて簡単なメロディーまで演奏してしまうのには驚いてしまう。

タンボリン

タンバリンとは全く別物。直径16cmほどの小さな片側にヘッドを張った太鼓で、極めて高く乾いた音がする。細かいパターンを激しくたたくのでカーニバルでは恐ろしく目立つ楽器。


アタバキ

細長いドラム。いろいろな大きさがある。コンガのルーツといわれる。素手で叩くことが多いが、スティックを用いることもある。カンドンブレの儀式には欠かせない楽器。拝む神様や状況により様々なリズム・パターンがある。この楽器が延々と叩かれる中、次第に巫女さんや信者はトランス状態に突入する。板垣真理子著「バイーア・ブラック」に詳しい。実は私もサルバドールのテレイロ(祈祷所)で一度御祓いを受けた経験がある。打楽器のリズムと人間の精神状態の間の深い関係にはいつも考えさせられる。

アゴゴ

カウベルを根本につけた金属の柄で連結した楽器。2連、3連が一般的だが、さらに多数連結した改造アゴゴも見かける。棒などでたたくほかに、互いにぶつけて音を出すことも行われる。

パンデイロ

タンバリンに似た楽器だが、プラチネイラ(ジングル)は3枚1セットで中の一枚を上下の2枚がお椀を伏せたような形で挟む構造となっている。カーニバルで使用するときは演奏はほとんどせず、回したり放り投げたりして、曲芸的な技を見せながらパシスタ(女性ソロ・ダンサー)と絡んで、駆け引きを披露する。演奏はもっとも難しい打楽器といわれ、達人になるとドラムセット同様のパーフォマンスができる。パゴージ(音楽パーティ)におけるサンバやショーロの演奏でその味わいを堪能できる。最近でたマルコス・スザーノのパンデイロ教則ビデオ「Pandeiro Complete Lesson」はとてもいいビデオだと思う。けれど、これまでのサンバ・パンデイロの奏法を捨て去る覚悟がいるかもね。

バンドリン

マンドリンの一種でショーロを中心として使用される。複弦の4コース。

ショカーリョ/ガンザ/シキシキ

シェイカー。いろいろな形、大きさがある。中身は小石、砂、木の実などで、振ってリズムを出す。シキシキはパレード用で大きな音が出る。

ビリンバウ

サンバではあまり使われない。むしろバイア系のカンドンブレやカポエイラでは必須の楽器。木製の弓にピアノ線を張り、下部に木の実等の共鳴物を装着する。片手に持ったスティックで弦をたたき、他方の小指に共鳴物と弓をつなぐ部分を引っかけ、親指と人差し指にはさんだ金属または石などで弦をミュートする。2音しか基本的には出ないが、スティックの扱い方や、共鳴胴を奏者の腹に当てたりはなしたりすることにより驚くほど多彩な表現が可能である。ナナ・バスコンセロスはこの楽器の名手として世界的に有名。

ボサノバ

 ブラジルでは、ボサノバの興隆はナショナリズムとアクティビズムの成長と一致している。60年代初頭、ポピュラー音楽はますます政治活動と、社会経済意識に同一視されるようになっていった。ボサノバの主流は、政治的にそれほど関心がなく見当違いな陳腐な論説で失望され、歌手達はしだいに自分の主張を声高に言うようになり、社会的な関心を表現するようになった。反抗の曲を作ることは、「演説ライン」として流行し始めた。人種主義はさらに広がり、、歌の社会的影響力を高めていった。
 ブラジルのあらゆる階級にとってポピュラー音楽は1964年の保守反動によって侵食された。独裁主義的な規則は、社会政治意識を研ぎすまし、歌によるさらなる反抗を扇動した。検閲が厳しくなり、いくつかの異義をとなえる方法は抑圧されていたにも関わらず、歌による社会論議は1965年まで広く普及した。歌手達は音楽産業の発展を目的として、賛同者を多く獲得していった。音楽を通じての反抗のメッセージは軍政への一般的な不満の兆候だった。
 1964年の後に、ナショナリズムや地域主義は主にボサノバに関心を持っていた。ジョアン・ジルベルトやアントニオ・カルロス・ジョビンによって確立されたボサノバは、「第二世代」と呼ばれる多くの改革が行われた。ジョベン・グヮルダなどで知られるロックンロールの成功は無条件に受け入れられ、ポピュラー音楽の国家的な性格や権利への感心によって助長された。社会問題に関心を持つこと〜特に北東部の〜は、音楽の楽器の変化を導いた。歌手達はボサノバの枠のなかで、原始的なサンバ・ジ・モーホの要素を取り入れ始めた。北東部のパライーバ州出身のジェラルド・バンドレは、ボサノバに彼らの音楽の要素が取り入れられ、歌詞に民俗的な要素が入るのを歓迎した。さらには、ミュージシャンたちはジャズよりもブラジルに伝統的な要素に傾倒し始める。多くの場合は、ボサノバの特徴的なシンコペーションは維持された。何人かの演奏者は初期ボサノバの技巧的な部分を残しながら、より力強い方向に変化していった。このようなさらなるアグレッシブな演奏形態の変化は反抗の主題を形成した。歌詞はしばしば都市の労働者階級、国内の不公平さ、背景の窮状に焦点をあてた。都市に住む中産階級の音楽家達は、歌詞で田舎の自然の美しさを強調し、国をブラジルの典型的な楽器を使い、異なる地域の民俗音楽のリズムを用い、ポピュラー音楽を彩るという音楽によって同一視した。この民族的で伝統的な起源はふつう社会主義に傾倒するのではなく、文化的なナショナリズムを含んでいた。
 ボサノバのアメリカ到着は誠実なミュージシャンたちの興味と推進によるものである。1961年、ケネディ大統領のよき隣人政策の保護のもと、ギタリストのチャーリー・バードがブラジルへグッド・ウイル・ツアーを行い、ボサノバを体験した。彼は音楽を持ち帰り、アメリカでスタン・ゲッツとともに今や歴史的な名盤であるジャズ・サンバのアルバムを製作した。このアルバムはヒットチャートを駆け上がり、すぐに模倣のブームを呼んだ。ボサノバの優勢を意味するもっとも有名なイベントは、1963年に起こった。ブラジル最高で、新しいミュージシャンたちがニューヨークのカーネギーホールで公演を行った。このイベントはラジオで、録音で、ボサノバの爆発的な人気を誘発し、排他的な音楽産業に衝撃をもたらした。この発展で異例だったのは、ジャズのカテゴリーにおいて、外国がオリジナルの音楽が普通のポピュラー音楽となんら変わりなく大衆の支持を得たことだった。必然的だったのは、録音産業における音楽経験、国際交流の体裁の悪さだった。この渦中にあったミュージシャンによれば、「アメリカで公共の電波にさらされていたほとんどすべてのボサノバが失敗か、とても浅いものだった」。どこでも、と彼は記している。「注目すべき、象徴的なブラジル音楽の発展〜病んだアメリカ音楽のビジネスへの影響と再生〜は、破壊され、粉砕された。」自発的な過程と段階的なアメリカ音楽への同化は切り縮められた。多くのジャズ・アーティストたちはあわただしくボサノバ・アルバムを量産した。


ボサノバで一番有名な曲は
「イパネマの娘」です。
 
 それがボサノバだと知らなくても、街角のどこかで、つけっぱなしにしたラジオで必ず誰でも聴いたことのある曲で。ビートルズの「サムシング」についで多くのレコーディングがされている曲だといいます。
 「イパネマの娘」は1964年ころアストラッド・ジルベルトの歌でアメリカを中心に大ヒットしました。それまでボサノバはブラジルのものだったのですが、このヒットで全世界の人が知るようになりました。
 イパネマとは、ブラジルの旧首都、海と切り立った崖の美しいリオ・デ・ジャネイロの海外沿いの高級アパートが建ち並ぶ地域。それは、海岸の道を踊るように歩く美しい娘に目を奪われた、そんな情景を歌った曲です。
 そうです。ボサノバは、リオ・デ・ジャネイロで誕生しました。そのリズミカルな演奏と、あくまでも穏やかな歌声は、ほかでもなくリオ・デ・ジャネイロの空気そのものなのです。
 「イパネマの娘」を作曲したのは、ブラジルの作曲家アントニオ・カルロス・ジョビンといいます。
トム・ジョビンの愛称でも広く親しまれています。そして偉大なマエストロ、ボサノバの父としてブラジルで尊敬されています。今日ボサノバの名曲として良く知られた曲の大部分をジョビンが書いたと言っても言い過ぎではありません。豊かなハーモニー、シンプルなメロディ、そしユニークな構成をもった曲によって、20世紀の三大作曲家、ガーシュイン、ビートルズ、ジョビンの中に数えられます。
 「イパネマの娘」の詩を書いたのは、やはりブラジルの詩人ヴィニシウス・ジ・モラエスでした。
トム・ジョビンを発掘し、ブラジル音楽を新しい方向へ大きく羽ばたかせるきっかけを作った人、それがヴィニシウス・ジ・モラエスです。彼は有名な詩人であり、外交官でしたが、映画にもなった「黒いオルフェ」の原作を書いたことでも有名です。
 「イパネマの娘」の録音は、1963年、すでにボサノバの神様として知られていたブラジル人ジョアン・ジルベルトとアメリカのウエスト・コースト派のジャズ・ミュージシャン、スタン・ゲッツが共演してやはり驚異的なセールスを記録したアルバム『ゲッツ/ジルベルト』にまず収められました。
日本の多くの人は今でも、「イパネマの娘」と『ゲッツ/ジルベルト』がボサノバのすべてだと思っている人も少なくありません。それくらい格段に売れたのです。
 ちなみに、アストラッドは「イパネマの娘」を英語で歌っています。でもボサノバはブラジルの歌で、ブラジルではポルトガル語で書かれたのです。ご存じでしたか?
 ポルトガル語で歌われるので,ある面ボサノバは取っつきにくいですが、反面すでに耳慣れてしまった英語にはない独特の柔らかさに親しんだとき、それはとても心地の良い響きをもった歌だと言うことに気づくのです。

ボサノバが世に産声を上げた曲「シェガ・ジ・サウダージ」です。

 実は、ボサノバの誕生は実にはっきりしています。多くのポピュラー音楽がいつのまにか人知れず誕生したのとは少し事情が違います。
 ブラジルの国民的音楽と言えばご存じかも知れませんが、あのリオのカーニバルでも知られるサンバです。ちっちゃな水着のダンサーのほうが有名かも知れないけれど、たくさんのパーカッションで演奏される複雑なリズムをもった激しい音楽でもあります。
 ボサノバは、そんなブラジルのサンバを母なる大地として生まれました。 
 1950年代、トム・ジョビンやヴィニシウス・ジ・モラエスは、アメリカの洗練されたジャズに匹敵するようなブラジル独自の音楽を生み出そうといろいろ試みていました。
 そこに突然、リオ・デ・ジャネイロの北部にあるバイーア州出身の男、ジョアン・ジルベルトが二人の前に現れました。彼は1本のギターで、サンバのパーカッションの様にシンコペーションの効いたリズムを紬だし、それに乗せて、ジャズ・ボーカルよりもさらにクールな歌い方を披露して見せたのでした。それは、余分なものをすべてそぎ落としたサンバでした。 
 後年、トム・ジョビンがボサノバとは何かと、ジャーナリストに問われるたび、ボサノバとはジョアン・ジルベルトその人だ、と答えたのこの出会いの瞬間を指して言っているのです。
 トム・ジョビンは、書きかけだった「シェガ・ジ・サウダージ」をジョアンのスタイルを念頭に完成させます。1958年、ジョアン・ジルベルトによって歌われた「シェガ・ジ・サウダージ」の空前のヒットで、この世にボサノバが産声を上げたのでした。
 トム・ジョビンは、ジョアンのためにその後、今日までスタンダード・ナンバーとして歌い継がれる実にユニークなスタイルの曲を書き、ジョアンはそれをレコーディングしました。それは3枚のLPに収められ、その中の曲こそ、ボサノバの核となって、リオ・デ・ジャネイロのミュージシャンというミュージシャンに影響を与え、さらに多くのボサノバの名曲が書かれたのです。
 ボサノバを、いろいろな演奏スタイルで特徴づけようとする解説は多いけれど、実はこうしてリオの若いミュージシャンたちが、その時作り上げたものがすべてボサノバなのです。