12月の活動状況

シクラメン。
(嫉妬)
別名はサイクルと言われ花が
終わると花弁がくるくると巻きあがる、
英名では野猪のパンを訳して
「ブタのまんじゅう」
といわれています。


誕生石
トルコ石(ターコイズ)
宝石ことば
成功・命中
宝石からのメッセージ
旅の保護・繁栄・与える喜び





閉校実行委員会 八広地区町会長会議 日興信金カラオケ大会
西八町会懇談会 神社役員会 子供会餅つき大会
小学校跡地説明会 区長表敬訪問 向島署防犯部長会議
庚申堂懇談会 青少年部委員会 子供会と両町会の懇談会
歳末夜警    






 1年365日長いようで、あと31日で2003年(平成15年)を迎える12月が足早にやって来た。今年の季節は1年中を通して異常気象で日本の四季は何処えやら、熱いか寒いかの二者択一の激しい変わりようだった。
 この12月は昔から世間では師走といわれ、なんとなくあわただしさを感じる今日この頃、わが町の道路のあちこちで掘り起こして古くなった下水管の取り替え工事を昼夜行っていて、日頃は道路渋滞などない、工事個所に交通整理員が赤ランプの付いた棒を振り車の流れを調節している為、何ヶ所にも渋滞待ちをしている。
 おまけに今月9日未明には平年より24日早く、15年ぶりに1p以上積雪するという初雪があり、辺りは真っ白の銀世界になった。
 雪といえば、今年は忠臣蔵の「ときは極月、中のころ」と始まる浪曲、講談で有名な討ち入りが14日で300年祭を迎えた。今回は泉岳寺〜両国松坂町の吉良邸までの約11qを300名以上の希望者が当時とは反対のコースでカッポした。
 月末の25日からは、毎年恒例になっている夜警が始まった。今年も五吾嬬小の子供会が参加して、午後7時から子供会の役員、父兄が声を張りあげて巡回したが、来年3月で廃校となる為五吾嬬小の子供会としては最後の「火の用心、マッチ1本、火事の元」という透き通った声も聞き納め。
 町の役員による夜回りは、8時30分と10時の2回出動し、テントの中で酒、おでん、煮こみうどんで暖を取りながらの、一段と冷え込みの激しい、寒風にも負けずに町内を巡回し、何事もなく終了した。


     
2002年12月25日夜警テント              巡回する子供会




東北新幹線

 東北新幹線「はやて」は東京〜八戸を最速2時間56分で結ぶ。盛岡から特急に乗り継ぐ現行より37分の短縮となる。
 「時間の短縮以上に、心理的効果は計り知れない」。東北新幹線盛岡〜八戸間が今月1日、開業した。同新幹線が北に延びるのは20年ぶりで、整備新幹線としては1997年の北陸新幹線高崎〜長野間に次ぐ2番目の開業となる。地元では観光客の増加など経済波及効果を見込むが、沿線自治体には多額の建設費の負担のほか、新たに並行在来線の維持運営という重荷が加わる。
 区間内には「いわて沼宮内」「二戸」の二つの新駅ができ、歓迎ムード一色で、八戸市では、タクシー運転手やホテル従業員らの研修が行われ、市民向けに観光客受け入れのためのガイド冊子「おんでやぁんせ八戸」も配布された。
 十和田湖畔では今春、地元観光業者が温泉を掘り当てたり、減少傾向をたどる観光客誘致の起爆剤にしたいと意気込んでいる。
 また、八戸延伸は航空業者にとっては驚異だし、八戸駅から北に約20qの三沢空港では、日本エアーシステムは利用客の減少を見込んで、東京〜三沢便を今月1日から1往復減らして3往復にすると共に、特定便割引運賃を15,300に値下げする。
 東京〜八戸間を15往復する「はやて」は片道15,350円で50円玉1枚の差になる。価格競争は利用者にはありがたいが、ミニ新幹線開業の影響をうけ、先月から東京への空の足が消えた山形空港の例も見逃せない。
 開業に沸く一方で、地元の負担は重い。八戸〜盛岡間の総事業費は4,740億円。地元負担は今年度までの累計で岩手県932億円、青森県314億円に上り、更に、JR東日本が手を引く並行在来線の運営という二重の重荷がのしかかる。
 開業と同時にJR東北線盛岡〜八戸間を引き継ぐのは第3セクターの「いわて銀河鉄道」(盛岡〜目時、82.0q)と「青い森鉄道」(目時〜八戸、25.9q)で、両社は運賃を5割前後値上げするが、運行本数は大幅に増やし、現在最も本数が少ない沼宮内〜一戸は、上下16本から31本へと倍増させ、利用客促進策が後手に回れば、地域の足の役割を失いかねないし赤字拡大の危険を覚悟しつつ、大きな賭けとなりかねない。
 1997年に全国で初めて長野県内の平行在来線の経営を引き継いだ「しなの鉄道」(軽井沢〜篠ノ井、65.1km)は、開業5年目で債務超過に陥った。長野県は「当初計画の策定や初期投資の段階で県の判断が甘かった」とし、経営再建に乗り出しているが、これを教訓にと、青い森鉄道では、青森県が23億7千万円の鉄道資産を買い上げ、同社は旅客運送だけを行う「上下分離方式」を採用した。当面、線路使用料も減免し、一般会計から補填する方式で、収支の均衡を図り、住民がマイレール意識を持ち、地域の足として積極的に利用する事が必要で、建設費も第3セクター鉄道の赤字も地方交付税で、という安易な考えはもはや許されない。
 現在、東北新幹線は新青森までの延伸工事が進み、九州新幹線の博多〜新八代、北陸新幹線の長野〜富山と合わせた3区間は2012年ごろに完成する予定だが、建設中の3線、6区間(盛岡〜八戸含む)の総事業費は約3兆6千億円で、国と地方の負担割合は2対1で、今年度は国が1,424億円、地方が712億円を出し、国の財源は、公共事業費と、旧国鉄から資産を引き継いだJRから支払われる既設新幹線譲渡収入(年額724億円)で賄っている。
 これに対し、棚上げになっている区間をどうするかという整備新幹線問題の最大の焦点であり未着工区間の『見直し』が、あと1年に迫っている。国土交通省は「見直しの結論を来年末に出すのか、それ以降作業を進めるのかは『玉虫色』とするが、新規着工を目指す沿線自治体や政治家の動きが活発化するのは確実で、未着工区間の総事業費は概算で4兆4007億円だが、財源確保のメドは全く立っていない。
 この様に、東京を中心とした大都会に住む人々の為の交通手段であって地方から地方へ利用する人々は思いのほか利用されているとは思われない地域には、生活手段として利用されている在来線の踏切をなくしたりする立体工事と共に規格アップを行いスピードアップを図る方式を選んで新幹線が導入されると、在来線はお払い箱となるいうような無策で、地元の自治体の負担となる組替えは如何なものかと思う。
 みなさん、ここで冷静に考えて見ましょう。日本全国空港のない県はないといわれる時代、より遠く離れていればいる程、スピードを要求する時は、飛行機の方が有利だし、使い分けは絶対必要で、毎日の生活手段として利用されている在来線は、新幹線の為に地方財政まで犠牲にして導入する時代ではなく、地方は地方のための自治に心がけないと自分たちの町は廃虚となりかねない。
 東海道新幹線の沿線をはじめスピードアップされたために唯の通過する町となり、寂れる一方の町となってしまい、慌てて以前のような賑やかさを取り戻そうと躍起になっても後の祭となってしまっては元も子もない。
 最後に、新幹線、飛行機、自動車の三体の住み分けを真剣に議論して決めないと無駄な投資を繰り返すだけで、国会議員の予算の分捕り合戦で生活環境の改善はおぼつかない。





泉岳寺

 都営地下鉄浅草線の泉岳寺駅を出ると第一京浜国道で約100メートルも坂道を登ると、素晴らしい山門が見える。中に入ると右側に連判状を手にした大石内蔵助の銅像が仁王立ちしている。この寺が日本で一番有名な禅寺の一つ「忠臣蔵」で知られる泉岳寺です。   
 今年は吉良邸の討ち入り(1702年12月14日)から、ちょうど300年目にあたり、財界人の有志らが「赤穂義士奉賛会」(瀬島竜三名誉会長)をつくって境内の整備のため寄付を募った。老朽化した墓所の修復や参道の整備は既に行われ、今冬には新しい義士記念館も完成する。
 本堂を正面に見て左手には義士と藩主・浅野長矩の墓所があり、完成したばかりの参道が続いていた。長さ約90メートル、幅2.5メートル、車椅子の人でも気楽に利用出来るようにスロープも併設されている。
 寄付した人の名前が刻まれた大小の玉垣、そして敷石は、すべて白御影石製で有名人の名前はないかと探して見ると、ひときわ大きな玉垣に読売巨人軍の「長嶋茂雄」の名前があった。
 今回で2回目の私ですが、左右の売店をのぞみこみながら参道を進むと、義士が吉良上野介の首を洗ったとされる古井戸や、大石主税の切腹を「見届けた」とされる梅の木や参道の途中からはむせ返るほどの線香の香りと先が見えなくなる程の煙がもうもうとしている。建設された義士記念館は、約2億円をかけて平屋造りの延べ230uで本堂横の義士館に収蔵されている討ち入りのときに着ていた装束、鎖かたびら、兜、肉筆の書、木彫りの像などを展示する。
 一方、江戸城では1701年(元禄14年)3月14日は、将軍の朝廷への年賀の答礼使者接待最後の4日目で、将軍から勅使・院使への答礼の日に当たった。とりわけその年は、将軍網吉は母、柱昌院のため、朝廷から「従一位」の位を吉良義央を使者として贈られていた。
 江戸城中で答礼の儀の始まる寸前、ご馳走役大名「浅野長矩」が、接待役「吉良義央」に「この間の遺恨覚えたるか」と刃傷に及んだ。綱吉はこれを聞き激怒、即「切腹・お家断絶」を言い渡したのである。
 綱吉には側用人・柳沢保明(吉保)がついていたし幕閣(老中)もいたわけで、将軍や大名が即刻とか直接とか裁きを下す事は望ましくなく、周囲の者がとりあえず時間を稼ぐようにしなくては行けなかった。
 江戸城中での刃傷沙汰は「けんか両成敗」が原則で、吉良の場合は一方的でもあった。吉良も「お構いなし」でなく、閉門か謹慎3ヶ月ぐらいにすれば良かったかもしれない。
 しかし、「浅野長矩」は2度目のご馳走役で、ある程度の経験があり、接待を取りし切る接待役への御礼等についても知らないわけでもないはずであった。もう一人のご馳走役「伊予藩伊達宗春家」では、一説によると白絹百疋・黄金百枚、狩野某の屏風等を吉良へ贈っている。
 浅野家は「かつお節一箱」と伝えている。これは藩主の問題ではなく、江戸家老と留守居役の裁量で、藩主とは別に一般の情勢を考え対応するのが能吏というもので、「浅野長矩」が短気・かんしゃく侍ならば、よく気配りしなければならなかったのである。
 弟の浅野大学が本家広島の浅野家へお預けとなり、お家再興の望みが絶たれて初めて、城代家老「大石良雄」は幕府の「けんか両成敗」たるべきことに不満を示す。武断派にも押され、「あだ討ち」後の好処遇に期待をかけて討ち入りしたものと思われる。
 吉良側は徒党を組んでの討ち入りなど思ってもおらず、寝巻き姿に刀を差して鎖帷子姿と戦い、20名も討たれ、「吉良義央」の首も挙げられてしまった。屋敷も城中の呉服橋から辺鄙な本所一ツ目に移り、「吉良義央」も隠居し当主は孫(上杉綱憲次男)の義周になっていた。今度は当主義周は討ち死にしなかった(仕形不届)としいて信州高島藩へお預け、吉良家は廃絶となった。浪士は幕閣・学者等協議の上で、将軍(幕府)の処分に逆らったこと、しかし、主君の仇を討った事は武士道の誉れとして「名誉の切腹」を申し渡された。一方、父と子を失った米沢藩主上杉綱憲は翌年1704年(宝永元年)42歳で病没。幽閉同然の「義周」も3年後21歳で没している。
 幕府は事件の7年後、浅野大学を旗本寄合500石として浅野家を再興し、11年後には大石良雄の三男大三郎を同禄の1500石で本家広島に復帰させ、30年後に、「吉良義央」の弟の家である東条家から義孚(よしざね)を吉良家として再興している。
 「仮名手本忠臣蔵」等の歌舞伎や講談がよく出来ていて、また江戸時代は武士道の宣伝に、明治以後は忠君愛国等と結ばれながら、その筋書きが真実と思われて来ていたのだろうか。


          
吉良邸前                       煙る47士墓所




冬至

 久しぶりに冬らしき冬が到来した。冬至は冬真っ最中であるが、本格的な寒さはこれからである。慌ただしく正月の準備に終われる年末は、流れて行く時間が惜しまれる時でもある。
 冬至は、昼の長さが一年中で一番短い日であり、ちなみに昼の長さは9時間45分しかありません。これを夏至の日のそれと比べますと、実に4時間50分もの差があることになります。
 太陽の光が弱まり動植物が衰弱し、農耕生活に一種の危機が訪れると感じられた日でもある。同時に、日照時間が再び延び、新しい太陽が輝き始める日でもある。従って、この日を陽気が回復し生命力が再生、復活する信仰や行事が民俗の中に数多く伝えられる。
 冬至唐茄子とか冬至カボチャと言って、この日はカボチャを食べると中風にならないとか、柚子湯に入るとひびやあかぎれを治し、その冬は風を引かないという言伝えもある。
 この日について様々な言い伝えや風習が残されています。「冬至に天気が良ければ翌年は豊作」「冬至に雷が鳴れば雨が多い」「冬至に南風がふけば地震・日照り・大雨」「冬至に雪が降れば豊作」こうみると、やはり農耕と密接な関係があったことがうかがえますね。
 小豆粥、餅、コンニャクなどを食べる地方もある。なぜカボチャを食べるのでしょう。それは中国では黄色を魔除けや災難除けとする信仰があったからなのです。カボチャのあの色が、太陽の力が弱ったこの日に魔や災難から人間を守ると考えたのでした。
 カボチャは16世紀にポルトガル船によって伝えられ、全国に広まったが、江戸時代の歳時記類には冬至のカボチャの記事はない。明治以降に広まった習俗のようで、柚子湯も、江戸末期の天保9年(1838年)刊の「東都歳時記」に銭湯で流行り始めたと記されている。古くからの行事のように見えて、意外と新しいものが民俗の中には含まれているものなのである。
 一方、東北地方から山陰地方にかけて伝えられていた「ダイシガユ」の伝承は、冬至の意味を考える上で注目される。旧暦11月23日夜、ちょうど冬至前後の吹雪の晩に、「ダイシサマ」、身なりを変え、家々を訪れるという伝承である。
 家々ではこの晩、小豆粥や団子を作ってお供えるが、粥には塩を入れない。「ダイシサマ」が貧乏で子供も多く塩が買えなかったためとか、吹雪の晩に塩を買いに出て行き倒れになったからなどといっている。
 この晩、必ず雪が降るのは、「ダイシサマ」をモテナそうとして隣家から食料を盗んだ貧しい老人う足跡を隠すためなどといい伝えられている。
 つまり、これらの行事や伝説の背後には、太陽の力が最も衰える時期に、生命力の再生と復活をもたらす聖なる訪問者が、貧しい旅の僧に身をやつして家々を回るという信仰があったのである。
       『とどめばや 流れて早き 年波の よどまぬ水は しがらみもなし
                                              (新勅撰和歌集)に
収められた入道二品親王道助の歌である。
(いつの世も時の流れは速いものと嘆かれたものである)。
 カンボジア原産と考えられたので,カンボジアのうリ(南瓜)の意で,この名が付けられた。唐茄子は中国由来を意味する。
 古くから重要野菜として,実を食用とした。ビタミンAの供給源であり,カロリーも高い。薬用には,花,葉,種子,へタを用いる。
 とくに種子は,たんぱく質,脂肪に富み,乾燥品も市販されている。漢方薬の大黄牡丹皮湯を構成する冬瓜子(ウリ科トウガンの種子)の代用ともなり,利尿,消炎,咳止め,化膿を防ぐ,膿を排除するなどの効果がある。
 浮腫(むくみ)には,乾燥した種子を,10〜20gを1日分として煎じて飲む。せきには,実のへた,または種子を黒焼にし,これに黒砂糖をまぜて飲むとよい。
 虫刺されには,葉または花をしぼって,汁を患部につけるとよい。塩を少し混ぜると,なおよいという。
 ビタミンAは抗夜盲(とりめ)因子として,発見されたが,視覚,聴覚,生殖などの機能維持,細胞組織の生合成に重要な役割を担っている。(冬至にかぼちゃを食べる風習は,この故だろうか?「冬至にかぼちゃを食うと中風にならぬ」との俗説もある。)
 全身の細胞で,ビタミンAやi−カロチンからつくられるレチノイン酸は,がん細胞を正常細胞に戻すなど,細胞・組織の分化誘導因子としての性質があり,最近注目されている。
 小豆粥を食べるのも、小豆の赤い色が疫鬼を恐れさせて近づかせないようにするという色の呪力を信じてのことなのです。
この日に「ん」のつく食物(蓮根・蜜柑など)を食べると運がつくという俗信もありますが、これは太陽の力が尽きる最後の日、ということで、いろはの最後の文字「ん」を用いたためでしょう。なにやら土用の丑の日に「う」のつくものを食べると食あたりしない・精がつく、と言われるのと通ずるところがあるようです。




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国内

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海外

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