3月の活動状況








幹部会 女性防災コンクール 西八町会地蔵供養
庚申講役員会 吾嬬第二中学校卒業式 交通安全説明会
防災部会議 八広小学校卒業式 地区編成会議
八広講総会 防災拠点会議 町内夜警パトロール








華雪の会
(日本舞踊花蔭流花蔭華雪、正派全国新舞踊家元花舞華雪)


 3月6日午前11時30分開場、正午開園、曳舟文化センターで行われた。まず最初の番組『清元 青海波 花蔭雪翔さん』から始まり、番組が5つ『白雲の城 花舞雪幸さん』が進んだ幕間で『衆議院議員松島みどり』さんの挨拶があり、舞台の背景が整うと次から次と番組が進み午後4時を回ると『長唄 老松 会主』が、さすが貫禄、十二分に発揮した踊りも終わり、舞台一面に7名の『名取』、6名の『弟子』、『関係者』が花蔭華雪会主を囲んで並んで、お礼の挨拶を最後に超満員の観衆の拍手とうっとりとした顔と満足した喚声に送られて、緞帳が静かに下がり終了。口々に『満足した言葉』を交わしながら会場を後にした。 

下町大空襲

 60年前の忌々しい、あの記憶は死ぬまで忘れられないと思っている人も多いことでしょう。あの前日の午後10時30分警戒警報が発令され、そして日が変わり、10日午前0時15分空襲警報が発令さた。
 
 私の父親は、警防団員の一人として火の見櫓の上から房総半島の上空を警戒していたそうです。なぜならその頃になると連合軍の航空機は、制空権を持っていたそうで、必ず同じコースを編隊を組んで飛来するようになっていたからです。

 最初は、日本橋あたりから燃え上がり次第に北上し、一部は隅田川を渡って深川の方に『火の手』があがり、暗い夜空が焦がされ次第に明るくなって、どんどん移って行くのがわかり、やがって本所、川向こうの浅草、上野、そして自分のいる向島と火の粉を被るようにまで迫ってきたが、ただどうにもできず望楼上でたたずんでいたそうです。

 やがて気を取り直して、我が家に向かったが、火勢が強くてなかなか進めず、商売道具一つも取り出させずに焼いてしまったが、命からがら難を逃れることが出来、終戦後我々が疎開していた愛知県渥美郡の田舎町に着の身着のままやせ細って姿を見せた。

 これが、第二次世界大戦で下町の一帯を総なめに焼き尽くしたB29の焼夷弾を落としていった飛行コースで、その数334機だとアメリカ側の記録がある。また、空襲の帰途B29は240qも離れても火の手が見えたともいわれる。戦争とはいえ、あの有名な『大本営発表』は、3月10日ラジオ放送で正午の時報の後<
本3月10日0時過ぎより2時40分の間、B29約130機主力を持って帝都に来襲市街地を猛爆せり。上記猛爆により都内各所に火災を生じたるも宮内省主馬寮は2時35分その他は8時ころまでに鎮火せり。現在までに判明せる戦果次の如し=撃墜15機、損害を与えたるもの約50機>と伝えたが、余りにも違い過ぎる。

 NHKテレビで東京大空襲のことについて放映したビデオを見た。
 警戒警報が9日午後10時に鳴り、いったん解除になったがその後午前0時頃、B29がやってくるのがわかったのに、警戒警報を出さなかった。その理由を当時の軍人将校が「天皇陛下が寝ているのを起こすのはしのびないので」と言っていた。結局、警報は爆撃が始まってからであった。

 3月18日に、昭和天皇は江東区の富岡八幡宮などの被災地を視察している。この時、天皇に死体を見せるわけにはいかないと何千・何万もの死体を焼かずに埋めたという。その死体は四年後に掘り返され改めて埋葬された。死体を埋めてあったところはとても臭くてたまらなかったという。 

 第二次世界大戦で、東京は、昭和17年4月18日の初空襲から終戦当日の昭和20年8月15日に至るまで、アメリカ軍の度重なる空襲により甚大な被害を受け、大方が非戦闘員である多くの都民が犠牲となった。

 本土空襲の指揮を取っていたカーチス・E・ルメイ将軍は、明かに非戦闘員を狙ったとする批判に対して、戦後の回想記のなかで次の様に述べている。

 『私は日本の民間人を殺したのではない。日本の軍需工場を破壊していたのだ。日本の都市の民家は全て軍需工場だった。ある家がボルトを作り、隣の家がナットを作り、向かいの家がワッシャを作っていた。木と紙でできた民家の一軒一軒が、全て我々を攻撃する武器の工場になっていたのだ。これをやっつけて何が悪いのか…』

 カーチス・E・ルメイ将軍は、グアム島在米爆撃隊司令として、広島・長崎に投下された原子爆弾にも深く係っている。

 『昭和39年、日本政府は「日本の航空自衛隊の育成に協力した」との理由から、カーチス・E・ルメイ将軍に対して勲一等旭日大綬章を贈っている・・・・・・・。時の佐藤栄作総理大臣(後、ノーベル平和賞、受賞)だった。』

 約二時間半にわたって波状絨毯爆撃が行われた。

 各機平均6トン以上の焼夷弾を搭載した344機のB29の大群が、房総半島沖合から単機または数機に分散して低高度で東京の下町に浸入した。都民の虚をついて来襲したB29の大編隊は、低空からアルミの細片をばら撒いて日本軍の電波探知機を無能にし、機体を捉えたサーチライトには機銃掃射を浴びせかけた。

 B29の先発部隊が江東区・墨田区・台東区にまたがる40kuの周囲にナパーム製高性能焼夷弾を投下して火の壁を作り、住民を猛火の中に閉じ込めて退路を断った。その後から約100万発(2,000トン)もの油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾やエレクトロン(高温・発火式)焼夷弾が投下され、逃げ惑う市民には超低空のB−29から機銃掃射が浴びせられた。

 折から風速30mの強風が吹き荒れて火勢を一層激しいものにし、火の玉のような火の粉が舞い踊り、強風に捲かれた炎が川面を舐めるように駆け抜け、直接戦争とは関係の無い一般市民は次第に狭まってくる火の壁の中を逃げまどいながら、性別も判らないような一塊の炭と化すまで焼き尽くされた。






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