新撰組


池田屋の変

 新選組局長近藤勇は幕末の天保5年調布市内の上石原で生まれました。古来、武州多摩地方は源平の頃より天下に名を残す「坂東武者」を多く輩出した勇猛な気質の土地柄で剣道等武道が盛んでした。近藤も若い頃より剣道を学び、江戸の天然理心流の家元の養子になるほどの豪腕でした。

 幕末のこの頃は黒船来港以来、開国へと向かう時代の激動期で、京都では市中を尊皇攘夷派が暴け回り、京都守護職の会津藩だけでは京都(天皇)を守り切れなくなり、徳川幕府は江戸で浪人を集め京都の警備に当たらせようと、浪人の募集を始めました。

 近藤以下天然理心流の門人達十数名もこれに応じ、総勢230人程で京に上り浪人達は浪士組と名付けられ、今日と警備の任につきました。
 只、浪士組は寄せ集めの隊のため意見が合わず、近藤以下十数名は隊を離れ新しい隊を作り「新選組」と名乗り、会津藩に預けられ京都警備を続けました。

 新選組は「局長、近藤勇」「副長、土方歳三」「助勤、沖田総司」等が「局中法度」と呼ぶ隊規を作りましたが、それは違反者は切腹という厳しいものでした。新選組の登場により京都市中は少しだけ平穏になりました。

 元治元年6月5日、京都市中の池田屋に長州藩の過激尊皇派が集結中との報を受け新選組近藤勇以下数名で討ち入り、かれらを斬殺し事件を未然に防ぎ雷名を高めました。

松本良順

 松本良順は、幕末の長崎の医官ポンペに西洋医学を学び、江戸に戻って幕府の医学所頭取になった人物である。最初の出会いは新撰組組長近藤勇が、突然、良順の家に来て面会を求めた時から始まる。

 それまでの新撰組は、何人にも剣をもって威嚇するという風評があり恐怖におののくが、良順は身を挺して国のためにつくす集団と考えていて面会する。

 
尊皇攘夷の志士たちと対決する近藤は、西欧諸国の事情について教えを請いたいといい、良順は自分の知る限りのことを話し、意気投合する。良順は幕府の医官として将軍家茂が京に赴く折、随行し会津藩医の家に身を寄せる。そこに近藤が訪ねてたり、近藤の招きに応じて新撰組の屯所がある西本願寺におもむき良順との交わりがさらに深まった。

 屯所の広い台所は残飯や腐りかけた魚肉や古びた野菜が数個の大きな樽に充満し、広間では刀を研いでいるもの鎖衣つくろっているもの、なかには横になっている病身
ものや裸体で陰部を露わすもの、みるからに統制が取れていないような百七、八十名の隊士がいた。

 良順は、あまりの諸施設のひどさに、近藤に提言して浴室をつくり入浴させたり、すぐさま診察を受けさせ病室を用意して、会津藩医や自分で診察したり、また、残飯は豚の餌にし、豚が肥えたら肉を隊士に食べさせ、さらに腐りかけた野菜は乾燥させて鶏の餌にし鶏に卵を産ませ食料する案を提案し、近藤はすぐに豚舎を作り数頭の豚を飼い、鶏舎も作り隊士たちは豚の肉、卵を食べさせて健康な体作りに専念した。(蘭疇=らんちゅう自伝)より

 後日談で、良順は初代の陸軍軍医総監となり日本の医学に貢献する。また、終生新撰組に好意をいだき、顕彰することに力をつくした。

明治維新

 幕府は反徳川派急先鋒の長州藩に攻め入りますが、長州藩の近代戦術には会津藩や新選組等の古い戦い方では通用せず、2度の長州征伐に敗れ、後、反徳川連合軍にも敗れ幕府軍は江戸に敗走してしまいます。時の将軍徳川慶喜は反徳川連合軍の武力を恐れ、大政を奉還後、江戸城を開城して天皇が中心になる政治が行われるようになりました。

 勝てば官軍、勝者である政府軍は善、敗者である幕府は悪とされ幕末に幕府打倒につくした者たちは勤皇の志士と美化され、これらの志士を殺害した新撰組は悪の権化とされ憎むべき組織として扱われ、歴史はとかく勝者の手によって形づくられるものだ。

 近藤勇は、大政奉還後慶応4年4月に斬首させられますが、300年続いた徳川時代が、家康の作り上げた八万騎の直参武士までもが、武士の心がまえ無くしている時に、近藤勇は「武士とは、男の美学、節義だ」という鮮烈な理想像を持ち、幕末でなければ、一国一城の主となれたほどの人物でしたが、徳川家に殉じ、忠節を通して、近藤勇は35歳の生涯を終えました。