オリンピック
(2004年8月14日〜8月29日)

 オリンピックマークは、正式には『オリンピックシンボル』といい、
5色(左から青・黄・黒・緑・赤)の輪を鎖状に組み合せたものです。
 5色の輪は世界5大陸(ヨーロッパ、南北アメリカ、アフリカ、アジア、オセアニア)と
その相互の結合、連帯を意味しているそうです。
 近代オリンピックの創始者ピエール・ド・クーベルタン男爵(フランス)が
白地にこの5色の輪を並べた旗を考案し、
1914年パリで開催された
IOC創立20周年記念式典の際にこれを公表したのがはじまりだそうです。






 21世紀に入ってから初めてのオリンピックが、近代オリンピック発祥の地アテネ(ギリシャ)で開催されました。今回で28回目の大会になるそうですが、内、3回は日中戦争、第一、第二次世界大戦の為に中止されています。

 日本が参加したオリンピック大会では、今までは東京大会が一番メダルを取って活躍した訳ですが、今大会は連日のメダル奪取が続き、金16個、銀が9個、銅が12個、計37個。個人と団体合計すると97個のメダルを獲得した。

金メダル

 

銀メダル

個数 名           前 種                    目   個数 名                 前                      種目

 1

谷    亮子

柔道・女子48`級    1 横沢 由貴 柔道・女子52`級
 2 野村  忠宏 柔道・男子60`級    2 山本 貴司 競泳・男子200bバタフライ
 3 北島  康介 競泳・男子100b平泳ぎ    3 泉    浩 柔道・男子90`級
 4 内柴  正人 柔道・男子66`級    4 山本   博 アーチェリー男子個人
 5 谷本  歩実 柔道・女子63`級    5 自転車チームスプリント 伏見、長塚、井上
 6 体操男子団体総合 鹿島、水鳥、中野、富田、塚原、米田    6 伊調 千春 レスリング・女子63`級フリースタイル
 7 上野  雅恵 柔道・女子70`級    7 冨田 洋之 体操・男子平行棒
 8 北島  康介 競泳・男子200b平泳ぎ    8 立花 美哉・武田 美保 シクロナイズドスイミング・ヂュエット
 9 安武  教子 柔道・女子78`級    9 シクロナイズドスイミング・チーム  
10 塚田  真希 柔道・女子70`超級        
11 鈴木  桂治 柔道・男子100`超級        
12 柴田  亜衣 競泳・女子800b自由形        
13 野口 みずき 陸上・女子マラソン        
14 吉田 沙保里 レスリング・女子55`級        
15 伊調    馨 レスリング・女子63`級        
16 室伏  広治 陸上・男子ハンマー投げ        

銅メダル

個数 名                前 種              目   個数 名    前 種                 目
 1 森田 智己 競泳・男子100b背泳ぎ    7 鹿島 丈博 体操・男子あん馬
 2 中西 悠子 競泳・女子200bバタフライ    8 浜口 京子 レスリング・女子63`級フリースタイル
 3 中村 礼子 競泳・女子200b背泳ぎ    9 米田   功 体操・男子鉄棒
 4 関   一人 ヨット・男子470級   10 野球  
 5 競泳男子400m・メドレーリレー 森田、北島、山本、奥村   11 田南部 力 レスリング・男子55`級フリースタイル
 6 ソフトボール     12 井上 謙二 レスリング・男子60`級フリースタイル

          ※室伏広治はアヌシュのドーピング違反発覚でメダルはく奪で繰り上げ金メダル




古代オリンピック

 古代ギリシアには四大祭典競技、すなわち、オリュンピア、コリント地峡、クレオナイのネメア、デルフォイのピュティア(Pythia)があったが、オリュンピア祭が一番有名である。オリュンピア祭の起源については幾つかの伝説があるが、インド・ヨーロッパ語族の守護神であったゼウスに奉納する祭典競技であった事は間違いない。

 オリュンピアで発掘された241年(第255回)のオリンピック優勝者が奉納した円盤には、この年を456オリンピアード(逆算すると第1回の競技会は前1580年)としてある。

 古代ギリシア人がギリシアに南下してきたのは前1500年代、ついでドリス人たちが移動してきたのは前1200年ころと推定される。いずれも先住民との激しい闘争が行われ、ホメロスの英雄時代に入る。英雄時代が終わって、ようやく秩序が回復してくると、毎年流行する悪疫封じを祈るため、守護神ゼウスの祭典競技を復活しようとする支配者が、エリスやスパルタに現れた。

 オリュンピアにはギリシア最古の神殿といわれるヘラの木造神殿があった。そこにゼウスを合祀したのも、新来者と先住民の和睦と考えられるが、その神域で第1回の復活祭典を行ったのが、前776年と記録されている。なぜこのような辺境の地が選ばれたのかわからない。しかし、辺境に会場があった為に比較的戦禍にもさらされず、長い間祭典が続けられたとも考えられる。

 この地は、はじめピサ領であったため、エリスと大会の主催権を争ったこともある。大会は4年ごとに行われ、後にローマの歴史学者がこの4年ごとの1期を1オリンピアードと名づけたのも、この大会の影響力の大きかったことを示している。

 会期は夏至の直後の満月の日を中心に行われた。これは今の7月か8月にあたる月で、ギリシアではこれが年の初めとされていた。初めのうちは、競技は1日だったが、最盛期は5日間行われた。

 オリュンピア祭参加資格は、最初ギリシア人でポリスの市民権を持つ男子であり、(最初の39回までは貴族に限られた)、法律で刑罰を受けたことがなく、神に対する≪けがれ≫の行為をしたことがなく、10ヵ月間の訓練と1ヵ月間の合同訓練によって審判官が適格者と認定したものに限られ、そのことを神前に宣誓した。

 競技種目は最初の13回までは、優勝者が伝えられているのは短距離競走(stadion)1種目であった。これは神域が狭くて、戦車競走をやる場所が無かったためである。その後、増加して総種目は26種、そのうち5種目が少年のためのものであった。大会の花は五種目競技(短距離競走、幅跳び、円盤投げ、やり投げ、レスリング)で、その優勝者の名をつけて、その4年間を誰々のオリンピアードとも呼んだ。戦車競走は戦車の美しさと参加台数とを競う競争になって優勝の栄誉はその所有者に与えられた。

 審判官は、はじめの200年間は1人或いは2人といわれ、エリス市民のうちから投票で選ばれた。ヘラノディカイ(Hellanodikai)と呼ばれ、全ギリシアの審判官を意味し、名称は前600年以前に用いられ始めたといわれる。後に、10人(1時12人)になった。

 優勝者には第7回(752B.C)から栄誉の印として、この神域に茂る野生のオリーブの小枝の冠を与えたと伝えられる。オリンピック競技に特別な賞品がないことに、前480年来襲したペルシアのクセルクセス王の指揮官の1人が驚いたことがヘロドトスによって伝えられている。このように大会の栄誉は純粋なものであったが、都市国家という本質やその競走の為に、出身地に帰ると凱旋将軍のように待遇された。アテネのソロンはオリュンピア祭優勝者に500ドラクマの賞金を与えたと伝えられ、スパルタでは王についで軍人と同じ資格を与えた。これは競技者の職業化を促進し、前5世紀になると各大会に参加して、1400の賞をもらった者も現れ、また、競技者で金より出身地を変更する者や、相手を買収して八百長試合を行う者まで出てきた。すでに前6世紀のはやくからクセノファネスが≪ギリシアの罪悪は万を数えるが、競技者族より悪い者はナイ≫と指摘していた。

 優勝者は各都市の体育クラブの会員となって免税の特権を与えられ、アウグストゥス帝は生活の保障と年金を与え、市民の義務と兵役とを免除された。

 ユスティニアヌス法典には、全生活を競技におくり、少なくとも3回、そのうち1回はローマ或いはギリシアの祭典競技に優勝した者には市民の義務を免除するというディオクレティアヌス帝の宣言を収録してある。

 大会は内乱がうちつづき、都市の消長があっても、全ヘラスの民族の主神の大祭に伴う競技会として、各都市、植民地からの参加の数も多く隆盛になってきた。これはスパルタに負うところが多く、優勝者の数によっても示される。この大会の前400年ころを絶頂に衰退の道をたどった。

 ギリシアがローマに併合されて(127B.C)からの大会は一路堕落と圧迫の道を急降下した。大175回(80B.C)大会はローマで行われ、オリュンピアでは少年の短距離競走だけが行われた。ローマ人が出場するようになり、前72年の大会には一つの種目にローマ人とギリシア人の2人の優勝者の名前が伝えられ、競技に関するローマ人の関心も深まり、前57年にはローマでオリュンピア祭に習って競走と競馬が行われた。皇帝ネロは65年のオリュンピア祭を67年に延期させて参加(つぎの大会は2年目に行ってオリンピアードの4年周期は狂わせなかった)4頭立戦車競走、駿馬(しゅんめ)4頭立戦車競走、伝令競走、悲劇と音楽競技に優勝と記録されている第211回、67A.D.)。祭典であるから各種の行事も行われ、ギリシア特有の吟遊詩人が集まって来たり、雄弁家や政治家が観衆の前で演説を行ったこともある。

 優勝者の像は神域に奉納されるので彫刻家の腕の見せどころとしたことも事実であろうが、競技ではなかった。競技者は初め下帯をつけていたが、第15回大会からは全裸で行った。女子は競技ばかりではなく既婚の婦人は見ることも禁止されていた。

近代オリンピック

 近代オリンピックとは、西暦が偶数の隔々年(4年に1)に国際オリンピック委員会(IOC)が開催する、世界的なスポーツ大会である。単にオリンピックと呼称したり、日本ではそのシンボルマークから五輪とも呼称される。古代ギリシャのオリンピアの祭典をヒントにして、19世紀末にフランスのクーベルタン男爵によって発想された。 

 1896年にアテネで創設大会を開くことが決まり、この決定の日が6月23日で、今日ではそれを記念するオリンピックデとなっています。企画・運営のために12カ国から14人が委員として選ばれました(翌年には1人が追加され、15人となりました)。これが国際オリンピック委員会(IOC)の最初で、会長には開催国ギリシャの代表、ディミトリウス・ビケラスが選ばれました。

 当時のギリシャは内政の不安定、財政悪化など問題をかかえていましたが、国王ゲオルギウス一世の指導、海外同胞からの多額の寄付などで乗り切り、4月6日、無事、開幕に漕ぎつけました。まだオリンピック憲章もなく、細かい開催要項も決まっていませんでしたが、開会式ではファンファーレにのって役員、選手団が入場、国王が開会を宣言すると祝砲が轟き、鳩が飛び立ちました。今日の壮麗な開会式は、第1回大会が原形といってよいでしょう。

 日本国内でもよく耳にする『オリンピック賛歌』はこの開会式の冒頭、ファンファーレに先立って合唱で紹介(詞コスティス・パロマ、曲スピロ・サマラ)されたものです。その後、忘れ去られていましたが、たまたま、賛歌の古い楽譜がギリシャで見つかり、東龍太郎IOC委員(元東京都知事)の仲介でこれを知った京で開かれたIOC総会の開会式で演奏、NHK交響楽団が、あらためて採譜、編曲して、1958年5月、東披露しました。定し、催事に使うことにしたのです。IOCは日本の善意と曲の素晴らしさに感激、以後この曲を公式に認

 夏季大会と冬季大会があり、第1回夏季オリンピックは1896年にアテネ(ギリシャ)で開催され、世界大戦による中断をはさみながら継続されている。第1回冬季オリンピックは1924年(シャモニー・モンブラン(フランス)  で開催された。1994年以降は西暦が4で割り切れる年に夏季オリンピックが、4で割って2が余る年に冬季オリンピックが開催される。当初、夏季オリンピックと冬季オリンピックは同年に開催されていたが、1994年のリレハンメル大会から2年おきに夏季大会と冬季大会を交互に開催するようになった。

 開催主体は都市であるが、用地の問題により開催都市の近隣に会場が分散されることもある。東京大会(1964年に開かれた第十八回夏季オリンピック。10月10日が開会式であった。閉会式は、10月24日。開会式のあった10月10日は、1966(昭和41年)から1999年(平成11年)までは、体育の日として親しまれていた。なお、1940年に第12回夏季オリンピックとして、東京でオリンピックが開催される予定であったが、日中戦争開戦に伴い、開催権を返上。返上後はヘルシンキで開催と決定したが、第二次世界大戦の為、結局開催できなかった歴史がある)。では国立競技場を初めとして東京都内に会場が設けられたが、ボート競技は埼玉県戸田市で、馬術は長野県軽井沢町で開催された。さらに近年は、大会の大規模化や施設建設による自然破壊への反省とともに開催都市の近隣都市に会場が分散されることが多い。

 アマチュアリズムを基本とし、古代の平和の祭典の復興を目指したオリンピックであるが、二度の世界大戦や、ミュンヘン大会におけるテロ事件、冷戦下でのアフガニスタン戦争に伴う東西のボイコット合戦など、時々の国際政治の影響は大きい。

 大会の大規模化とともに開催に伴う開催都市負担が問題となったが1984年のロサンジェルス大会でピーター・ユベロス大会委員長主導のもと、ショーアップを計るとともに、大会ごとに企業にオリンピックマークの独占的な使用をスポンサードとともに許可するなど、商業資本を大幅に導入し、一大ビジネスチャンスとして注目されるようになった。オリンピックは発足当初からアマチュア選手のみに参加資格を限ってきたが、旧共産圏のステートアマ問題などもあり、プロ選手の参加が段階的に解禁されるようになった。ロサンジェルス大会のころからサマランチ会長のもと商業主義が加速したといわれ、近年は誘致活動にIOC委員への賄賂が提供されたことなどが問題になった。開催地でのスポンサーを見込んで増え続けていた競技種目を減らそうとする動きもでてきている。

 日本が初めて参加したのはストックホルム夏季大会である。これはオリンピックの普及に腐心したクーベルタン男爵の強い慫慂によるものであるが、嘉納治五郎を初めとする日本側関係者の努力も大きかった。最初は男子陸上のみによる参加であったが、アムステルダムオリンピックからは女子選手も参加した。

 日本選手のメダル獲得、ベルリン大会からはじまったラジオ中継などにより、日本での関心がまし、1940年大会を東京に招致することに成功したが、この大会は第2次世界大戦により中止された。戦後の1948年大会には参加を許されず、1952年ヘルシンキ夏季大会より復帰した。



夏季オリンピック

開催年月日 開催地 開催国 実施競技・種目数・参加国・選手数
1896年 4月 6日〜 4月15日 アテネ ギリシャ  8競技 43種目 13ヵ国  280人
1900年 5月20日〜10月28日 パリ フランス 16競技 60種目 19ヵ国 1066人
1904年 7月 1日〜11月23日 セントルイス アメリカ 18競技 87種目 12ヵ国  681人
1908年 4月27日〜10月31日 ロンドン イギリス 22競技110種目 22ヵ国 1999人
1912年 5月 5日〜 7月22日 ストックホルム スウェーデン 15競技108種目 28ヵ国 2490人
1916 ベルリン(中止) ドイツ  
1920年 4月23日〜 9月12日 アントワープ ベルギー 23競技161種目 29ヵ国 2668人
1924年 5月 5日〜 7月27日 パリ フランス 19競技140種目 44ヵ国 3070人
1928年 5月17日〜 8月12日 アムステルダム オランダ 16競技19種目 46ヵ国 2694人
10 1932年 7月30日〜 8月14日 ロサンゼルス アメリカ 16競技128種目 37ヵ国 1328
11 1936年 8月 1日〜 8月16日 ベルリン ドイツ 21競技148種目 49ヵ国 3956人
12 1940 東京(返上)、ヘルシンキ(中止) 日本、フィンランド  
1944 ロンドン イギリス  
14 1948年 7月29日〜 8月14日 ロンドン イギリス 19競技51種目 59ヵ国 4064人
15 1952年 7月19日〜 8月 3日 ヘルシンキ フィンランド 18競技51種目 69ヵ国 4879人
16 1956年11月22日〜12月8日
       6月10日〜 6月17日
メルボルン
ストックホルム
オーストラリア
スウェーデン
17競技45種目 67ヵ国 3178人
 1競技  6種目 29ヵ国  159人
17 1960年 8月25日〜 9月11日 ローマ イタリア 18競技150種目 83ヵ国 5348人
18 1964年10月10日〜10月24日 東京 日本 20競技163種目 93ヵ国 5081人
19 1968年10月12日〜10月27日 メキシコシティー メキシコ 18競技112種目113ヵ国 5423人
20 1972年 8月26日〜 9月11日 ミュンヘン 西ドイツ 21競技195種目121ヵ国 7173人
21 1976年 7月17日〜 8月 1日 モントリオール カナダ 21競技198種目 92ヵ国 6026人
22 1980年 7月19日〜 8月 3日 モスクワ ソ連 21競技203種目 80ヵ国 5217人
23 1984年 7月28日〜 8月12日 ロサンゼルス アメリカ 21競技221種目140ヵ国 6797人
24 1988年 9月17日〜10月 2日 ソウル 韓国 23競技237種目159ヵ国 8465人
25 1992年 7月25日〜 8月 9日 バルセロナ スペイン 25競技257種目169ヵ国 9368人
26 1996年 7月19日〜 8月 4日 アトランタ アメリカ 26競技271種目197ヵ国10332人
27 2000年 9月19日〜10月 1日 シドニー オーストラリア 28競技300種目199ヵ国1116人
28 2004年 8月13日〜 8月29日 アテネ ギリシャ 28競技301種目202ヵ国10000人
29 2008年 北京(予定) 中国  

                  ※ 第16回は、馬術のみストックホルムで、他はメルボルン。



冬季オリンピック

回数 開催年月日 開催地 開催国 実施競技種目数・参加国・選手数
  1924年 1月25日〜 2月 5日 シャモニー・モンブラン フランス 4競技/14種目/16ヵ国/ 258人
 2 1928年 2月11日〜 2月19日 サンモリッツ スイス 5競技/14種目/25ヵ国/ 464人
 3 1932年 2月 4日〜 2月13日 レークブラシッド アメリカ 4競技/14種目/17ヵ国/ 252人
 4 1936年 2月 6日〜 2月16日 ガルミッシュ・バルテンキルヘン ドイツ 4競技/17種目/28ヵ国/ 668人
         
         
 5 1948年 1月30日〜 2月 8日 サン・モリッツ スイス 5競技/22種目/28ヵ国/ 669人
 6 1952年 2月14日〜 2月25日 オスロ ノルウェー 4競技/22種目/30ヵ国/ 694人
 7 1956年 1月26日〜 2月 5日 コルチナ・ダンペッツオ イタリア 4競技/24種目/32ヵ国/ 820人
 8 1960年 2月18日〜 2月28日 スコーバレー アメリカ 4競技/27種目/30ヵ国/ 665人
 9 1964年 2月 6日〜 2月18日 インスブルッグ オーストリア 6競技/34種目/36ヵ国/1091人
10 1968年 2月 3日〜 2月13日 グルノーブル フランス 6競技/35種目/37ヵ国/1158人
11 1972年 2月 3日〜 2月13日 札幌 日本 6競技/35種目/35ヵ国/1006人
12 1976年 1月29日〜 2月 9日 インスブルック オーストリア 6競技/37種目/37ヵ国/1123人
13 1980年 2月13日〜 2月24日 レークブラシッド アメリカ 6競技/38種目/37ヵ国/1072人
14 1984年 2月 8日〜 2月19日 サラエボ ユーゴスラビア 6競技/39種目/49ヵ国/1274人
15 1988年 2月13日〜 2月28日 カルガリー カナダ 6競技/46種目/57ヵ国/1423人
16 1992年 2月 8日〜 2月23日 アルベールビル フランス 6競技/57種目/64ヵ国/1801人
17 1994年 2月12日〜 2月27日 リレハンメル ノルウェー 6競技/61種目/67ヵ国/1739人
18 1998年 2月 7日〜 2月22日 長野 日本 7競技/68種目/72ヵ国/2305人
19 2002年 2月 8日〜 2月24日 ソルトレークシティー アメリカ 7競技/78種目/78ヵ国/2517人
20 2006年(予定)  トリノ イタリア  

 





一口ばなし

 第1回オリンピックはギリシャのアテネで開催。参加国はアメリカ・イギリスなど13ヶ国。開催競技数は陸上、水泳、体操、レスリング、フェンシング、射撃、自転車、テニスの8競技43種目。ヨットも予定されていましたが、悪天候で中止だとか。ちなみに1996年のアトランタ大会では26競技271種目でした。また、この第1回目は男子のみ。古代オリンピックと同じです。
 
 第2回はオリンピック提唱者クーベルタン伯爵の祖国、フランスのパリで開かれます。しかし、同時期に開催されていた万国博覧会の付属大会(イベントの一環のような存在)とされてしまい、運営は困難を極めたとか。例えば、メダルはクーベルタンが実際に関わった陸上競技しか渡せず、しかも届いたのは2年後です。なお、ここから女性も参加可能になります。


 メダルの規格はオリンピック憲章に規定されていて、 金メダルは銀台に6g以上の金メッキを施し、銀メダルは純度千分の925以上、さらに各メダルとも競技の名称を記載することとなっています。

日本初のメダルは、1920年の第7回 アントワープ大会でテニスの
熊谷一弥の銀メダル。シングルのみならず、ダブルスでは柏尾誠一のペアで銀メダルを獲得。
 
 日本初の金メダルは1928年(昭和3年)の第9回 アムステルダム大会で三段跳びの
織田幹雄(ちなみに彼が三段跳びとネーミング、日本で同競技は、それまでホスジャン=ホップステップジャンプと和訳していた)。さらに32年のロサンゼルス大会では金メダル7個。36年のベルリン大会で平泳ぎで前畑秀子が女性初の金メダル。
 
 これまでオリンピックに出場した選手の中で最長老は1920年第7回大会での
オスカー・スパーン(72歳)。射撃で出場し、何と銀メダルを獲得しています。





ギリシャ

 人口は1064万
7529人(2004年推計)で、人口密度は81人/kuである。出生率はかつてヨーロッパでも高い国に分類されたが、死亡率とともに最近では低下しており、2004年推計では年間の人口増加率は0.20%となった。

最大の都市は首都アテネで、人口は77万
2072人(1991年)。アテネ近郊のピレウスは国内最大の港湾都市で、人口は18万2671人(1991年。テッサロニキ(38万3967人(1991年)は織物産業で有名である。ほかに、ペロポネソス半島北部にある港湾都市パートレ(パトラス)、イラクリオンなどがある。

簡単ギリシャ料理

ズッキーニ・ティガニタ(ギリシャ風の天ぷら)

 ティガニタとは油で揚げること。日本の天ぷらのように衣を作るのではなく、小麦粉をまぶすだけなことと、油の中に落とすのではなくて、油を薄くしいて両面をこんがり焼く点は違いますが、やはりこれは「ギリシャ風天ぷら」。次回にご紹介するジャジキをかけて食べると最高ですが、実はお醤油につけてもすごく行けるのです。同じようにナスのティガニタ(メリツァネス・ティガニテス)も作ることができます。

ティロ・ピタキア(一口サイズのチーズパイ)

 フェタは熱でとろりと溶けるために、火を通す料理でもおいしく食べることができます。その代表格がフィロという薄い薄いペストリーシートで焼いたティロピタと呼ばれるチーズパイなのですが、フィロばかりはどこをどう探しても日本では手に入りません。作るのは想像するだに大変なことですので、ここは代用品で。私は、ちょっと厚いのですが、春巻きの皮を使って小さな一口サイズのティロ・ピタつまりティロ・ピタキア(小さな物にはakiが語尾につくことは第1回の「タラモサラタ」を読んでくださいね)を作ります。熱が加わるとフェタがまろやかになって、そのままではどうもという人にもとても食べやすくなります。

ジャジキ(ヨーグルトとガーリックの絶妙コンビ)

 ジャジキとはこのようにニンニク好きにはたまらない料理です。そしてパンにもズッキーニやナスのティガニタにも実によく合うのです。まろやかなヨーグルトの中に散らばるみじん切りキュウリのしゃきしゃきとした歯ごたえもたまりません。